「私、朝鮮の人になっていたかもしれない」と母は言った

実家に行ったら、母が昔のアルバムを見ていた。なんと、自分の幼少期からの年代ものである。
母は昭和12年(1937)生まれ。最初のページに、一つ上の姉と一緒に写っている2歳半の母の写真があり、その上にずっと後で父が母だけ引き伸ばした写真が貼ってあった。



母の姉の方はよそゆきのワンピース、母も別珍か何かのワンピースの上に当時の子どもらしく白いエプロンをして、手にガラガラみたいなおもちゃを持っている。どことなく不安げな顔をしているのは母によれば、初めて写真館というところに連れていかれ、付き添った母親は入らずに子どもたちだけで撮られることになったから。「おかあちゃんもいっしょ」と駄々を捏ね、母親は仕方ないので「すぐ後ろにいるよ」と言って、背後のカーテンの陰に隠れていたという。
今は75歳のおばあさんになった母だが、若い頃は昔の女優で言えば浅丘ルリ子中原ひとみ系のキュートな美人で、私はよく友達に「オオノさんはお母さんにはあんまり似てないね」と言われた(父親似なのです)。この写真の幼い母を見ると、3歳前にして将来そこそこの美人に成長するであろうことが、既に顔に刻印されている気がする。
「私、朝鮮の人になっていたかもしれないのよね」と、写真をしみじみ眺めながら、びっくりするようなことを母が言った。以下、母から初めて聞いた話である。


中学の教員だった母の父親はこの当時、日本語の教師をするために、日本の統治下にあった朝鮮半島に派遣されていた。朝鮮の公教育から朝鮮語が排除され、日本語が強制されていった時代。父親もおそらく”内地”で先生をしているより給料がずっと良いということで、単身大陸行きを決めたのだろう。平壌よりやや北の地方にいた父親からは時々、母たちの暮らしではなかなか手に入らないような上等な革靴や、見たこともないほど見事な栗や柿などの果物が送られてきたという。いずれは家族も朝鮮に呼び寄せて暮らすつもりであったらしい。
冒頭の写真は、父親から「娘たちの写真を送ってほしい」という手紙が来たので、写真館で撮って母親が送ったものである。それを父親は何かのパーティの折、知り合った地元のある朝鮮人の人に見せた。可愛い娘の写真だから、人に見せてちょっと自慢したかったのだろう。
するとその人が、母を養女に貰えないかという相談を持ちかけてきた。彼は地元の有力者で大富豪であった。日本人と朝鮮人の階級差が厳然としてある中、お金持ちの朝鮮人が日本人の子どもを引き取って養育することは一つのステイタスでもあり、さまざまな社会的恩恵を被ることができたらしい(それに、写真の母はたぶん誰の目にも愛らしかった)。


父親は普通の農家の出身だったから、母の実家は特別裕福なわけではない。「上の娘は老後のために手近に置いておいたとして、下の娘はどうせ嫁にやってしまう。ならば、一生金の苦労のなさそうな大金持ちのところに今から養女にやるのも、悪くないかもしれない」と父親は考えた。まだ貧しい農村で娘が売られていた時代である。それに父親にしてみれば、というかその当時の日本人にしてみれば、朝鮮半島は「日本の一部」であり、外国へ娘をやってしまうという感覚はなかった。もちろん母を養女に差し出すのと引き換えに、相当の大金を父親は手にすることになるはずである。
父親はそのことを手紙に書いて家に送った。母親は仰天し、困り果てて祖父(母親の父)に相談すると、寺の住職で母をとても可愛がっていた祖父は「娘を売るとは何事か!」と大層立腹し、娘婿である父親に「それは絶対にならぬ」と返事を書いた。それで父親も改心し、養女の話はなしになったのである。
太平洋戦争の拡大によって朝鮮半島での情勢も変化し、父親は2年後に帰ってきた。派遣されていた地方は冬場非常に寒く、ここで家族が暮らすのはどの道難しいとも思ったらしい(因に彼は教職に戻らず職業軍人となって再び大陸に赴き、帰国したのは終戦後だという)。


「あのまま養女にやられていたら、私、今頃どうなっていたかしらね」と母が言った。
終戦時、母は8歳。いずれにしても完全に朝鮮に同化し、その国の人になっただろう。
「大金持ちのお嬢さんとして育てられて、やっぱり向こうの大金持ちと結婚していたのかしらね〜」
などと言う母のファンタジーに水を差したくなったので、
「戦後、北朝鮮になった時に富豪は人民軍に処刑されて、お母さんは可愛いから命を助けられて、喜び組に入れられて将軍様に仕えていたんじゃない?」
と言った。その前に富豪が南に逃げていたかもしれないけど。
「そうだねぇ。それか、拉致されてきた日本人に朝鮮語を教える先生になってたかもしれない」
本当に、どうなっていたんだろう。私が生まれていないことは確かだが。


その後、父親が冗談で幼い母に「おまえは橋の下に捨てられていたのを拾ってきたんだよ」などと言うと、いつもはもの静かな母親が猛然と「そんなことは決してないからね、カズコはうちの子だよ」と母に言ってきかせたらしい。
その母親が歳をとっておばあさんになった頃、北朝鮮拉致家族のニュースをテレビで見るたび、「気の毒で、悲しくて見ておれない」とこぼしていたという。もしあの時娘を手放してしまっていたら‥‥と想像しないわけにはいかなかったのだろうと思う。