縮んでいく人

既に通い慣れたと言っていい感じになってきた老人介護施設の、父の入居しているフロアに上がり、この時間帯ならいるはずの食堂を覗くと、車椅子の父は見当たらなかった。部屋かな?と個室を覗いても、もぬけの殻。
おかしいなぁと食堂に戻りつつ、ふと今通り過ぎたエレベーターホールを何気なく見ると、エレベーターの扉の方に向いたとても小柄な老人が、座ったままユラユラと車椅子を前後に動かしていた。エレベーターに乗りたいのに乗れなくて、イライラしているような様子だ。
さっきもその人はそこにいた。その斜め後ろからの顔をよく見直して、突然、父だとわかった。
毎週来ていたのに、父が見違えるほどこんなに小さく、こんなに痩せた老人になっていることに今まで気付かなかった、という事実に、軽く打ちのめされた。


年老いて、人は縮んでいく。筋肉や脂肪が落ち、背骨の椎間板の厚みも失われ、背中も丸くなる。
3年ほど前、父を車の助手席に乗せた時も、「あれ、こんなに小さかったっけ」と思ったが、この夏の終わりに肺炎で死にかけてから父の体は一段と縮み、今はそれよりさらに小さくなっている(ような気がする)。
物が縮んで小さくなるのは、その物自体が擦り減っているか、物の中に含まれていた空気や水分がなくなっているかだ。人間も基本的に「物」だから同じなのだが、父を見ていると、そうした物理的な物以外の何かが、体内からゆっくりと奪われていっているのではないかと思えてくる。


小学校3年の時に買ってもらい、それから今に至るまで何回も読んでいる本の一つに、『海の日曜日』(今江祥智実業之日本社、1966)という少年少女小説がある。厩舎から抜け出したマリンスノーという銀色の馬に偶然出会い、心から魅了されてしまった男の子の物語。彼が年上の少年と共に、レースで怪我をしたマリンスノーの介抱をする場面を思い出した。
馬の怪我は重く、既に競馬馬としては馬主にも見放されている。少年たちの目には、衰弱した馬が日に日に小さく縮んでいくように見える。昨日はロバくらいだったのが今日は犬くらいに、その次は猫くらいに、その次の日はネズミくらいの大きさに。
これ以上縮んだらなくなってしまうと思えた時、マリンスノーはまた徐々に「大きさ」を取り戻し始める。「今日はあいつ、猫くらいには見えるぞ」「でっかい猫だな」と少年たちは喜び合う。彼らの献身的な介抱が功を奏し、馬は自力で立ち、やがて駆け足ができるまでに回復する。
少年たちの目に映った馬の「大きさ」は馬の生命力そのものであり、それに対応した少年たちの希望の大きさだ。たとえ瀕死の状態になっても、馬には生きたい、回復したいという本能があり、また実際回復するだけの力も残っていたということだ。


90歳近い父に、かつての元気を取り戻す力はない。リハビリをする体力すらない。薬と介護によって、衰えていく速度をなるべく遅らせている状態だ。だから元通りになってほしいという期待は、誰も抱いていない。残り少ない時間をできるだけ苦痛なく、心穏やかに送ってもらいたい。医者も介護の人も家族もそう考えている。
そのことは重々わかっているが、私の目に写った父の「大きさ」が父の生命力であり、それに対応した私の希望なのだと考えると、少し淋しくなる。


食堂にいつもいる車椅子の老人の一人に、目が合って挨拶するとにこやかに微笑んで会釈する老婦人がいる。白髪をきちんと整え、おそらくわりといいとこの奥様だったんじゃないかという感じの、上品なおばあさん。
その人がある時、細い声を張り上げて、「わたしは、もう死にたいんです。生きていたくはないんです」と言っているのを聞いた。思わず、傍らの父を顔を見たが、父には何も聞こえていないようで、ぼんやり前を向いたままだった。
「死にたい」とは、とても人間的な欲望である。動物は死にたいと思うことがない。どんな状態になっても、基本的には生きることしか考えていない。
脳梗塞で倒れるまで『長寿の秘訣』という本を読み、「百歳まで生きる」と豪語してた父に、「もう死にたい」や「いつ死んでもいい」という気持ちは生まれていないだろう。としたら、どういう人間的な欲望が残っているのだろう。食欲や睡眠欲や自己保存欲といった生理的、動物的な欲求以外に。
「家に帰りたい」とは一切口にしなくなった父の中に、何があるのか、私にはわからない。そのことが一番淋しいことなんだと、今気付いた。