アート、症候、ドーナツの穴

私はTwitterをやっていないが、興味をもった10数人のアート関係の人々のtweetを時々見ている。その中で最近印象深かった発言。




「アートは症候する」以降の文は、結構情報圧縮度が高い。これを勝手に噛み砕いていいものかわからないが、自分なりに解釈して言い換えてみると、
「アートは一般には(アウトサイダーアートにしてもインサイダーのファインアートにしても)表現だと言われているが、アートの本質はそこにはない。アートとは言わば、何らかの症候そのものである。症候とは精神分析では、病気の徴候ではなく、無意識の葛藤を表現する主体的現象とされるもの。例えば神経症など、無意識の中に抑圧された欲望が、別のかたちを取って表に現れているものである。アートは抑圧されたものや葛藤を掴み出し、作品として生起させようとするが、それらは無意識の中にあるのでこの試みは失敗する。つまりアートとは、作品や行為によってアーティストが実現(生起)しようとしたものそれ自体ではない。アートは実現(生起)しなかったものとして現れる」
といったことだろうか。*1


何故このtweetが目に止まったかというと、これとほぼ同じ(たぶん)ようなことを、フロイトを援用している鈴木國文のテキストを借りつつ自著の中で書いているからだ。以下その箇所を引用する。

『時代が病むということ 無意識の構造と美術』(日本評論社、二〇〇六)で著者の鈴木國文は、同時代現象としてあったシュルレアリズムと精神分析との関係を論じながら、アンドレ・ブルトンフロイトが芸術に見ていたものの違いについて、次のように述べています。

 しかし、フロイトが諸芸術に見ていたものと、ブルトンが芸術を通じて求めていたものとの間には、やはり無視しがたい隔たりがあったと言わなくてはならないだろう。特に、晩年のフロイトには、芸術という営みそのものが、ちょうど神経症の症状のように、人間が何かに「出会い損ねて」いるからこそ生まれるものと見えていたのである。それに対してブルトンは、芸術によってこそその何かに出会おうと、あらゆる手を尽くし、その言説を紡いでいたのである。(p.19)


「出会い損ねて」いる何かとは、無意識にあるものです。無意識に抑圧されてあるものを何らかの方法で抽出したり、意識化したりすることは不可能です。「無意識とは、いつもそこを避けられる穴としてしか、つまり出会い損ねた現実としてしか、われわれの精神に現れることのないもの」(p.97)。よって、無意識から何かをつかみ出そうとしたシュルレアリズムも、「出会い損ねた現実」しか表象し得ない。そこでアートとは、ブルトンが求めた「その何かに出会おうと」することの”失敗”の結果なのです。
 鈴木國文はモダニズムの側面である「出会い損ないを隠蔽するという側面」について、「モダニズムにおいて、美術は「呈示しえないもの」を「隠蔽記憶」の助けを借りて想起することを繰返してきた」と説明します。

「隠蔽記憶」とは「その記憶としての価値を、それ自身の内容にではなく、他の抑圧された内容に対する関係によっているような記憶(フロイト)」であり、いわば、ある事を忘れるためにその代わりに想起される記憶の影絵のようなものである。たとえば、両親の寝室への幼時の関心を隠蔽するために、ベッド横の壁の模様を克明に覚えているといったことは分析実践ではよく経験されることである。モダニズムにおけるさまざまなフォルムは、モダンの始源ーー個人においてはおそらく主体の始源でもあるのだろうがーーにおけるある欠如を隠蔽するための隠蔽装置として現れていると言うこともできるだろう。」
(p.173〜174)


(中略)
「抑圧されたもの」を知ろうとして「想起」に向かった時、主体は必ず大きな抵抗に遭います。従って引用の記述に即して言えば、「ベッド横の壁の模様」の再現こそがアートです。なぜ「ベッド横の壁の模様」を再現せねばならないのか、その理由は本人にはわかりません。もちろん作品解釈的にいろいろ理由はつけられるでしょう。でも本当のところはわからない。
 無意識に抑圧されているのは、主体の始源にある欠如、傷です。エディプス・コンプレックス‥‥。そうとも言いますが、私たちはそれを知りません。知らないまま、「何かが欠落した存在」「何かから決定的に引き離された寄る辺ない存在」として自己を認識し、欠落を埋めたいという欲望を覚える。その代償としてのアートは、傷そのものを示すことなく、その"隣”に形作られる。それは言わばドーナツのようなものです。私たちはドーナツ(作品)が美味しいか不味いかを云々するけれども、真の問題はドーナツの穴(傷)なのです。しかし穴そのものについて語ることはできない。そして穴はドーナツを作ってみない限り、現れない。‥‥もちろん、ドーナツがアートでなければならない理由はありません。


『アート・ヒステリー なんでもかんでもアートな国・ニッポン』(p.254〜257)



「作る」とは「世界に対して受動的でしかない自己の存在を、なんとか能動的なものに作り替えようとする試み」であり、その結果は「止むに止まれぬ無償の行為とそこに賭けられた闇雲なエネルギーが世界の表面に残した痕跡」でしかない。アートを欲望という観点から見ていけばこうしたところに還元される。と、本では書いた。
改めて読むと大して新味はないが、アート=アーティストが何かを「表現」したもの(よってアーティストはそれについて知っている、作品はなんらかのメッセージを伝えるもの)という一面的な見方はまだかなり根強いので、そこに疑問を投じ、近代的な主体としてのアーティストを解体する言葉が、さまざまな角度からもっと積まれるべきだと思う。


ネット上にある他者の言葉と自分の言葉を併置して線を引いてみる、ということを、時々やっていきたい。
しかし私の言葉もドーナツのようなものだ。私の知らないある傷の周囲をぐるぐると巡っている。


時代が病むということ―無意識の構造と美術

時代が病むということ―無意識の構造と美術