「現代美術って、やおいだな」「は?」

何をどこで聞き齧ってきたのか知らないが、夫が突然、「やおいって何だ?」と言った。
彼は「腐女子」も「BL」も知らない。そもそもあまりマンガを読まない。エヴァですら、テレビ放映も劇場版も見てなくて偶然パチンコで知ったのである。50代の普通のおじさんは、だいたいそんなものだと思う。
で、腐女子度の低い私も「やおい」の語源くらいは知っているので教えると、「ふうん」と特に面白くもなさそうな顔をしていた(まあ実際、話だけ聞かされても別に面白くないと思う)。


それから数日経ったある日のこと。
食事中にいきなり「現代美術って、やおいだな」と夫が言った。
「は?」
「ヤマなし、オチなし、イミなしだろ」
「ちょ‥‥w」
今月初めに金沢21世紀美術館で見た現代美術展が夫としては大層つまらなかった、そのことを未だに引きずっていたんだなと思った。自分にはちっとも面白いと思えないものを、大勢の人が感心して眺めているという状況がとても居心地悪く、なんとかこのモヤモヤに適切な言葉を与えたいと思っていたところに、全然関係ない「やおい」の意味を知って思わず結びつけてしまったと。
現代美術は、やおい‥‥。なんとなく各方面から顰蹙を買いそうな言い方である。


山場も落ちも意味もないというところから名付けられたという「やおい」は、それ自体がパロディであり当初は物語性を重視していなかった。オリジナルを知った上で書き換えを面白がる、そういう楽しみ方を了解している人にとってのみ成り立つ表現だ。
一方、美術は聖書を始めとした物語の一場面を表現する形式から離れて以降、基本的には物語的な時間性をもたない。むしろ、ヤマとオチとイミを一挙に実現しようとするジャンルだろう(特に絵画は)。だからそれを読み解くには、コンテクストをある程度知らないとならない。バックボーンの知識がいるという意味では、「やおい」と似ている。


というわけで例によって拙書引用。

 つまり、個々の作品内部で完結した意味や内容を見つけようとしてもわかりません。個々の作品は、独立した言葉のようなもの。言葉の意味を十全に把握するには文法を知り、文脈を読まねばならないように、その作品の意味を知るには、先行する作品群との関係や参照されているであろう美術の約束事との関係といった文脈を、ある程度は押さえる必要がある。コンテクストの組み替えが、近代以降のアートの命脈を保ってきたのです。
 その上で、それまで見ていた世界を違う角度から見せてくれるような発想、企み、仕掛けがあり、それを表現するに相応しい技法と技術レベルでもって最大限に効果的に表現された作品に注目が集まった。作品が既成の文化に対して「異物」として立ち現れてくるのは、人々の「知」の枠組みを破壊するもの、新しい言葉遣いで喋るものとして登場する時なのです。要はチャブ台ひっくり返した者勝ちだった(一番盛大にひっくり返したのは何と言ってもデュシャンです)。これを前に「息子による父殺し」の歴史と言いました。


『アート・ヒステリー』(p.58)


こういう説明はもう聞き飽きたという人もいるだろう。実は私も、コンテクストありきの現代美術において、そのコンテクストの組み替えゲームがスリリングに思えた時期は、もう過ぎ去ったのではないかという気がしている。そういうことはファッションからマンガまで既に他のジャンルでも散々されており、別に現代美術の専売特許というわけではないのだし。


などということをブツブツ呟いていたら、テレビを見ていた夫が「おっ」と言うので見ると、横尾忠則のインタビューをやっていた。三叉路の油絵シリーズが出ている。
「おもしれーじゃないか」と夫が言った。「目のつけどころがいいね」。いっぱしの批評家のような口ぶりである。
では、会田誠などはどう見るのだろう。夫によれば村上隆は「ランドセルの作品は『おっ』と思ったが、漫画みたいなのは全然いいと思えん」、奈良美智は「いい歳してそんなんやっとっていいのか」だそうだ*1 が、会田誠にどう反応するか知りたいような気もする。来年の初めあたりに、森美術館で開催中の個展に誘ってみようかなと思った。*2

*1:いくら素人とは言え、酷い言い方である。が、かつて浅田彰も同じようなことをもっと高尚な言い方で言っている。拙書参照。

*2:会田誠は会期中、時間外で未完成の作品に手を入れているそうなので、会期の後の方に行った方がいいかもしれない。