田舎の通夜、喪の作業

夫の伯父が、突然亡くなった。伯父は義父兄弟の長兄で、岐阜の山奥の川沿いの古い田舎屋敷に住んでおり、夫が従兄弟と仲が良いこともあって、私達は年に一回くらい泊まりに行く。
夏頃、脳溢血を起こして入院したが回復し、奥さんと一緒にデイサービスに通っていた。一ヶ月ほど前に会った時も元気で頭もまだしっかりしており、自分でお茶を淹れて出してくれた。それが一昨日の昼頃、家族が出払って誰もいない家の風呂の湯船の中で亡くなっているのを、カラオケ大会に誘いに来た近所の人が発見したという。
いつもは午前中に風呂に入ることはないのだが、カラオケに行く前に一風呂浴び服を着替えて出かけようと、わざわざデイサービスから一旦帰って、寒い脱衣所から熱い風呂に入り、元から血圧が高かったので脳の血管が切れたらしい。


「おばあさん(伯父の母)も、風呂場で倒れて死んだなぁ」と夫が言った。その当時(三十年ほど前)は、その村では土葬で埋葬するのが習わしだったそうだ。
「五右衛門風呂みたいな樽の形の柩で、提灯持って、墓地まで葬式行列するんだ。俺、大学生だったけどその柩、従兄弟と一緒に担いだよ」。身近にそんな日本昔話的世界があったとは思わなかった。祖母をほとんど最後にして、村での土葬は廃れたという。
伯父は、養蚕と林業に従事する兼業農家の七人兄弟の長男として生まれ、尋常小学校を出て家業を継ぎ、結婚して三人の子どもと六人の孫と五人の曾孫に恵まれた。老後は自分で作った炭焼き小屋で炭を焼いたり、小さな畑を耕したりと、88歳で死ぬまでアウトドアライフを通した。ある意味、典型的な日本の村のお爺さんの人生を全うしたと言えるかもしれないが、そうした暮らしもいずれは日本昔話のようなものになっていくのだろう。


都市では最近は、通夜も葬儀もセレモニーホールで行うケースが多いが、田舎のことゆえどちらも自宅で行われる。葬儀は夫の仕事で行けないので昨夜、一緒にお通夜に行った。
その昼に一足早く夫の両親は伯父宅に着いていたのだが、段取りが手間取っているようで夫のところに電話がかかってきた。「そんなこといつまでも皆で相談してないで、オヤジが采配してどんどん決めてけばいいじゃないか」と、夫がちょっとイライラして言った。
夜9時頃に着くと、祭壇が作られた二間続きの広い座敷にまだ親戚や近所の人々がたくさん残っていた。寿司と料理と酒が並べられ、娘さんたちや息子さんの奥さんが忙しく広間と台所を行き来していた。義母も黒い割烹着を着ていたが、「おばさんは休んでて」と言われ手持ち無沙汰のようだった。今更私などが入り込む隙はない。
誰かが亡くなると、まず町内会の人々が来て幕や提灯や祭壇のセッティングをする。だから葬儀一式のレンタル代は15万と安い。昔は女性たちが総出で通夜の料理を作ったそうだが、今は半分くらいは出前である。


85歳になる伯父の奥さんは、居間の炬燵のいつもの席に喪服でちょこんと座っていた。傍に行きお悔やみを述べると私の手を握り、「ほんとに突然のことでなぁ。私がそばに付いておればよかったんだに」と目に涙を溜めて言った。
お昼頃に遺体が発見されて大騒ぎになり、一段落ついた後、まだデイサービスにいた奥さんを除く家族と親戚が集まって、「ばあさんが帰ってきたらどうやって伝えようか」という相談をしたそうだ。どうやってもこうやっても、起こった事をそのまま伝えるしかないわけだが、朝一緒に家を出た夫が夕方には冷たい骸となっていると聞かされては、さぞショックだったことだろう。
伯父の兄弟姉妹や息子さんたちは、「まあ仕方ない、これが寿命だったんだろう」などと、割合さっぱりした顔をしていた。伯父のあの暮らしがあってその延長線上にこの死があることを、誰も彼もが宿命として受け入れようとしている。
既にひとしきり故人の思い出話は出尽くしたのか、あちこちで車座になった人々は、仕事の話や自分の家族の話などで盛り上がっていた。誰かの冗談に時々ワッと笑い声が上がる。退屈した孫たちがトランプをしている。


その光景を見ながら私は、1984年に公開された伊丹十三監督の『お葬式』を思い出していた。田舎で亡くなった奥さんの父親の遺体を、主人公の伊豆の別荘に運んで葬式をする話だ。
故人の死を悲しんでいるのは残された妻であるお婆さんだけで、他の人々は葬儀の段取りのあれこれや、葬儀と関係ない私的なあれこれでドタバタし、時に揉めている。細かいやり方に何かと口出しするおじさん(大滝秀治の名演)、霊前で飲んだくれる男、噂話ばかりしている人や食べてばかりいる人。それでも人々は何とか形式通りに、弔いの儀の一切を滞りなく運んでいこうとする。喪に服すとは形式を形式として遵守することだと、誰もが知っているかのように。
伯父の通夜にも同じ空気が感じられた。祭壇に写真が飾られ燭台と花輪が並び、白い幕で壁が覆われた部屋の伯父が横たわる柩の前で、皆がそれぞれに振る舞いながらも、それらはすべて(笑い声さえも)故人を悼む行為に収斂される。一家のお爺さんを亡くしてから一日半の間に、ごく一般的な葬儀の形式に則るかたちで「喪の作業」が少しずつ行われているように感じた。



弔いの儀の形式において、その内実がどうであるかは問われない。極端な話、きちんとした葬儀の形式に則っていれば(心の中ではどう思おうと)、死者を悼んでいることになる。というか、死者を悼むには一定の形式が必要となる。セレモニーホールの流れるようにスムーズな葬儀進行などは、その最たるものだ。それは死者のためというよりはむしろ、生きている者たちが、死者を追悼し喪に服すという行為を形式として共有するためにある。どんな人もそこでは儀式の形式(法)に従い、秩序を守る人となる。
だから儀式を破壊する行為は、それを支える法や秩序や共同体を破壊する行為として危険視される。逆に言えば、「この場の法や秩序や共同体に問題がある。それは偽りのものだ」と指弾するための象徴的行為として、儀式の破壊や拒否という振る舞いはある。
ギリシア悲劇アンティゴネ』のポリュネイケスの場合のように、共同体に反逆した者の埋葬が禁じられ、遺体が放置されるのも同じ理屈である。通常の形式(法)を踏むことを禁じる命令(法)。それを破って兄の亡骸に砂をかけて埋葬としたアンティゴネは死刑を宣告されて牢に幽閉され、そこで自害する。彼女は現世の法に背いて法を超える倫理を通したが、それが死者の弔いを巡る問題であったことは、葬儀という形式が共同体にとっていかに重要なものかを示しているようだ。


介護施設に入居中の私の父は、亡くなった伯父と同じ歳である。頭のしっかりしていた時から、「お坊さんを呼んで執り行う葬儀はせず、ごく身内のお別れ会だけにしてくれ」と言っていた。
父と母は共に献体の会に入っており、短いお別れ会の後、遺体は大学病院に搬送され、さまざまな臓器摘出の後にそこから火葬場に運ばれ、お骨だけが戻ってくることになっている。ごく一般的な葬儀と比べると、非常にあっさりしている。そういうことを正式な遺書ではないが書き残しているので、その通りに行う手筈である。父の兄弟たちは皆故人となっているし、「そんなやり方は普通と違い過ぎる、キチンとしてないのでダメだ」と言う人もいない。
仏教徒ではないから仏教の葬儀はしない。お経も祭壇も香典も墓もいらない。遺骨は海に撒いてくれ。父は、宗教的、因習的な形式を酷く嫌うところがあった。あんなものは形式的で中身が伴っていない。葬儀屋を儲けさせているだけだと。
それも一つの考え方だろう。だが形式ではなく内実を重視してほしい、心から死を悼むなら一般的な葬儀という形に頼らないでやってほしいという願いこそ、贅沢なものではないかとも思う。
父が死んだ時、私はより良く「喪の作業」を行えるだろうか。私がブログに最近しばしば父のことを書いているのは、「喪の作業」の予行練習ではないだろうか‥‥と思いながら、深夜に帰宅した。



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