森美術館の回答についての雑感

会田誠展について - MORI ART MUSEUM


森美術館での会田誠展に抗議が起こった件について、先日、森美術館は美術館の観客である一般の人向けの文面を美術館サイトに出した。現代アート業界で一般向けの言葉としてよく使われている決まり文句に満ちた、可もなく不可もないまるで”水のような”文面だと私は感じた(作家のコメントもそれと同じく無難なもの)。
そしてここから、森美術館は抗議側と議論のテーブルにつくつもりはなく、この件はこの一般向けのコメントをもって終わりとする(したい)のだろうという印象を受けた。
だとしたら、実に変な感じである。
AがBに直接「こういうのは非常に問題だ。やめてほしい」と抗議したのに対して、BはAを無視し、見守っているであろう「みなさま」(あるいは「大文字の他者」)に宛てて、「なんかいろいろ意見が出てるけど、うちの方針はこうだからよろしく」と言っているのだ。変でしょ、すごく。Bにとっては失礼千万ということになるのではないか。
こういう態度が取れるのは普通、BがAを自分よりずっと下に見下していて、「世間(大文字の他者)を味方につけておけばいい」と思っている場合のみである。アートとはおよそほど遠い態度に思える。
(追記:一日前に直接回答したようだ。http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/kaitou/ ただし一般向けのものと同じ文面であり、抗議、質問に対しては極めて抽象的で曖昧な返答となっているので、「見下している(真剣に対処する気はない)」という印象はあまり変わらない。「多くの異なった意見を持つ方々が議論を交わすことが重要である」なら、抗議側の求めている直接的な場を設ければいいのにと思った。)


断っておくが、私は件の作品群を美術館から撤去すべきだとは思わないし、「悲惨な情景を描いていても、反戦や差別の実態を訴えるなど正義の意図があるものならいいが、それが感じられないものはダメ」(要約)という批判側の中にある芸術観にも、全然賛同しない。*1
しかし現代アートを「まだ評価の定まらない多様な視点」や「常識にとらわれない独自の視点」をもった「実験的・批判的・挑発的」な「対話と議論の契機を生み出」すものだとしている、つまり現代アートは”議論喚起的なもの”だと言っている側が、ちっとも議論に積極的でない、まるきり官僚的な態度を見せているのは、不思議なことだと言うしかない。


もし、こうしたあらかじめ用意してあったかのような文面で批判をやんわり躱すのがアート業界では当たり前だとするのなら、「実験的・批判的・挑発的」なものを扱っているなどと言う必要もなくなる。
なぜなら、「実験的・批判的・挑発的」なものを扱うとは、異論が起こって答えることを求められた時、決まりきった業界常套句で躱さないということだからだ。自分の作品が多少なりとも議論喚起的なものであってほしいと願うアーティストなら、よく知っていることだと思う。
そして美術館が、アートはあらゆる人に向けて開かれているという前提の上に存在するものである以上、「そもそもアートはそういう批判を内包している」という態度は取れないのだ。
専門領域がその内側で起こることにしか関心がなく、また責任を持てないのであれば、アートは開かれているという建前は捨てるべきだろう。


因に私は会田作品については、さまざまな文脈の組み合わせ、再編集というアート・ゲーム的な作り方がされており、露悪的には見えるが「実験的・批判的・挑発的」なものではなく、アートシーンで「クール・ジャパン」ならぬ「クールでないダサいジャパン」的な独特の位置を占めるために、挑発的と感じさせるような戦略を取っているだけだと思っている。
なので、彼の作品のどういう点が「実験的」で、何に対して「批判的」で、誰に対して「挑発的」であるのか、そのことが私たちにとってどういう意味をもっているのか、その意味は「会田誠の一連の作品は、現実の性差別をそのまま反映し肯定している」という批判をどう覆すのか、森美術館を初めとして誰も具体的に語ってくれないのが残念である。


そもそもこの件についてアート関係者で、アート擁護以外の視点でコメントしている人が極めて少ない。業界に深く関わっている人ほど、ものがはっきり言いにくいのだろうか。
自分の立ち位置を相対化する、根本的に問い直し更新していくという姿勢は、ある時期の現代アートの生命線だったが、それはもうどこにも見当たらないようだ。少なくとも「アート」と自らを名乗る場所には。


以下は拙書より。

アートの他には替えがたい「重要性」を世の中に認識させたいと常々願うこと、他の何にも増してアートにこそ大切な答えが潜んでいるはずだと信じること、それは芸術信仰にも近い「アートへの欲望」です。その欲望は、アートの名の下に行われていることを、「かつてない事態におけるアートの新たな可能性」という問題系に回収させようとします。状況が深刻になればなるほど、「今こそアートが必要とされている」と言われる。アートがどんなかたちになろうと、そこに必ず新たな意義と価値を見い出し「可能性」を語るといった言説を、絶やすわけにはいかないのでしょう。
[中略]
こういう中でアートの世界から発せられる現実に対するさまざまなアプローチは、これからもアートの立ち位置はそのままに尚も「可能性」を語ろうとする言葉で埋め尽くされるのでしょうか。それとも、そのような「アートへの欲望」に対する根本的な問いかけが始まるのでしょうか。もちろんその問いかけは、自らの足下を掘り崩すことにも繋がっていくものかもしれません。しかしどんな領域、分野でも、自らの足下を掘り崩すというかたちでしか本当のことは言えないというのが、3.11以降に私たちが見てきたことではないでしょうか。


(『アート・ヒステリー』第三章 アートの終わるところ p.253〜254)

●関連記事
退屈で倒錯した話 - 「森美術館・会田誠展への抗議」問題についての雑感

*1:この考え方、文化庁長官が文化予算を取るための「方便」として提示したらしい(http://twitter.com/goromurayama/status/300073291786354688)芸術観と似ている。参照:http://togetter.com/li/452379 引き続きフェミ系MLで議論を見ているが、抗議側の人の中に渦巻いているのはたぶん「芸術はこうあるべき」以前の論理化できない強い感情なので、対話が成立しているとは言い難い。この件によらず、「被害者である」という強い自意識と感情が、現在さまざまな前提や枠組みを吹っ飛ばして前面化していることと、「ネタ/ベタ」がなくなったことは、関連しているように思う。