『ねことオルガン』が教えてくれたこと

『ねことオルガン』(1962、今西祐行小峰書店)。小峰書店の創作幼年童話シリーズのうちの一冊だが、長らく絶版となっている。
子どもの頃に読んだこの本のことを最近急に思い出し、実家にまだあるか母に聞いてみると、姪(妹の娘)が小さい時にあげたという。今年20歳になる姪はこの本を気に入って、ずっと大切に持っていてくれた。彼女から借りて45年ぶり(!)くらいに再読した。
擬人化された猫同士の会話がとても愉快で、可笑しくてしんみりするお話だったという記憶はあったが、小学低学年の頃は、こんなに深みのある内容だったということまではわからなかった。早い話が、読みながら私は泣いた。別に猫好きだからでは(断じて)ない。そもそもこれは猫を主人公とした多くの子ども向け物語と同様、猫の姿を借りた人間のお話なのだ。*1


なぜ大人が読んでそこまで沁みるのか、以下で少し詳しく物語を紹介しながら書きたいと思うので、どうしてもネタばれが嫌な人はスルーしてください(もちろんここを通読した後でも、十分新鮮に面白く読めると思います)。



主人公は、雄のノラ猫である。子猫の頃、母猫と引き離され貰われていった先の飼い主に「役に立たない」と捨てられて以降、ひとりで生きてきた。今は気ままなノラ生活を満喫しているが、ネズミを取るのも泥棒も下手な少しドン臭い奴なので、他の猫たちから「のらおじさん」とからかい気味に呼ばれている。
この今ひとつ冴えない猫のキャラ設定が、非常にいい。子どもの時より今の方が、数倍感情移入できる。
のらおじさんはある時、母猫とはぐれた子猫に出会う。ニイニイ鳴く子猫を少しもて余すが、昔の自分と重ね合わせ、「なんにもかなしがることはない。かあさんがいなくても、家がなくても、せかいじゅうがおいらの家さ」と励ます。
先輩ぶって「うた」(あまり猫社会で活躍できないこの猫の、ちょっと夢見がちなのんびりした気質が現れている)や木登りなどを教えるのらおじさんに、子猫も元気を取り戻してついていく。大人の猫が子猫に「外の世界」を見せようとしているほほえましいシーンだ。少し生意気で無邪気で好奇心旺盛な子猫の描写が素晴らしい。
「かあさんのうた」を歌ってくれとせがまれて困ってしまったのらおじさんは、自分が子猫の頃に住んでいた最初の家にまだ母猫がいたら、この子を可愛がってくれるかもしれないと考える。その家はどうしたら探せるのか‥‥‥。
こうして、血のつながらない二匹の彷徨が始まる。


その日の夕暮れ、すっかりお腹が空いた子猫のために、のらおじさんは夕餉時の家からかつおぶしを失敬しようとするが、見つけられ叩き出される。子どもの前でいいところを見せようとして大失敗をし、きまりが悪い思いをする大人の図である。
さらに、のらおじさんが苦手としている、ここらのボス猫で太った三毛ののらおばさんに遭遇。「あら、かわいい子つれてるじゃない」と、のらおばさんはずけずけ勝手なことを喋り倒し、子猫の「かあさん」を探しているのらおじさんを「そんなこといってて、おまえさんまで、そのうちにくいっぱぐれるんじゃないのかい」と冷やかす。そしてむっとするのらおじさんを尻目に、「ちょっとしんぱいしてやってるだけさ」と悠然と立ち去る。
この雌猫も実にいきいきとキャラ立ちしている。顔が広くて歯に衣着せない、下町のたくましいおばさんといったところ。


面白いのは、大人猫の一連のやりとりを子猫はしっかり観察していて、直後にストレートな質問をするところだ。二匹の会話を抜き出してみる。
「おじさん、あのひといいひとなの? わるいひとなの?」*2
「さあーね」
「ずいぶんおしゃべりおばさんだね。でもおじさんのことしんぱいしてるっていってたから、やさしいひとかもしれないね」
「さあねえ」
「おじさん、さっきから、さあねさあねばっかりいってるんだね」
「うるさいな。おまえさんはだまっといで。のらねこにいいもわるいもあるもんか」
まるで落語の一節のようである。
苦手な雌猫に軽くいなされ、ムカつくやらカッコ悪いやらで立つ瀬がないのらおじさん。そんな大人の複雑な心情など読めない無邪気な子猫の言葉に、勝手に苛つき逆ギレしてしまう。ありますよ、人間の大人にも、こういうことが。


この失点をなんとか取り返そうと、のらおじさんはさっき目をつけておいたサンマ(庭先の七輪で焼いているのが昭和である)を一匹盗むべく、機会を窺って屋根に登る。ところがいざと言う時、突然現れたのらおばさんがサンマを先取りして逃走。彼女はのらおじさんが狙っていたのを知らない。
意気消沈しきったのらおじさんが、どこかのゴミ箱から魚の頭を漁ってようやく子猫のもとに帰ると、子猫の前に食べかけの大きなサンマがあるではないか。のらおばさんがくれたと言う子猫。「おじさんのためにのこしとくんだよっておばさんがいうから、はんぶんのこしておいたんだよ」。
悔しさとみじめさで、のらおじさんはしばし言葉を失う。しかし彼にもノラ猫の矜持があり、「しんせつなおばさんだね。いいからおまえさんがみんなおたべ」と、残りの半身も子猫に食べさせるのである。
弱く小さな者を飢えから守ろうと、家族でもない二人の大人がそれぞれ奮闘する。微妙な力関係の二人が、子どもにはその大人の事情を気付かせまいと気を配る。もうここで私の涙腺は緩んでくる。


さて、このエピソードの本当のクライマックスは、翌早朝に訪れる。
のらおじさんが目を覚ますと子猫がいない。聴こえてくる微かな鳴き声を頼りに探すと、子猫は火の見櫓のてっぺんにかじりついて鳴いている。急いで助けに行ったおじさんに子猫は、「おさかなをとろうとおもったんだよ」。下から見ると、おさかなが火の見櫓のてっぺんに引っかかっているように見えたので、頑張って登ってきたのだと。
それは空にかかった明け方の三日月で、(たしかにサンマにそっくりだが)食べられないのだと諭すのらおじさんに、子猫は言う。
「おじさんにあげようとおもってさ」
「この‥‥おじさんに?」
「ああ、そうだよ。だっておじさん、ゆうべ、ほねとあたましかたべてないでしょう」


     。・゚・(ノД`)・゚・。  


すみません、本から写しただけでブワッときてしまいました。。


失敗の連続で自己嫌悪にも似た鬱屈を溜めていたのらおじさんの気持ちは、子猫に救われる。彼は子猫をくわえて梯子を降りながら、その無垢なやさしさ、自分に寄せられた素朴な信頼と愛情の芽生えに密かに涙する。そして、この子はノラになんかなっちゃいけないんだという思いを新たにする(本には説明されていないが、こうした子猫の純真がノラ生活の中で汚れていくのをのらおじさんは恐れたのかもしれない。この子にとっては世界がやさしいものであってほしいと)。
「母猫探し」が暗礁に乗り上げ、苦手なのらおばさんに子猫の貰い手(人間のお母さん)のことで相談に行くのだが、目星をつけた魚屋で一大騒動が引き起こされ、子猫を守ろうとして大怪我を負うという悲運な展開に。どこまでもついてないのらおじさんにのらおばさんも同情し、何かとエサを回してくれるようになる。
のらおじさんの子猫への思いにほだされてしまったのらおばさんとしては、このまま三匹一緒に暮らしてもいいかなと思い始めているのだが、のらおじさんの決意は変わらない。
そしてとうとう、子猫はのらおじさんによって、厳しいノラ猫の世界から、家猫の世界へと押し出される。子猫はそのオルガンのある家で可愛がられて成長するが、その様子をのらおじさんとのらおばさんが時々そっと見に来ていたことは知らないのである。



他人同士だった大人と子どもがひょんなことで行動を共にすることになり、最初は軋轢があるものの、さまざまな出来事を経て次第に情愛が芽生え、絆が生まれていく。『ねことオルガン』がそうした「疑似親子物語」であるのは言うまでもない。
ただし私の知る限りでは、他の物語にはあまり見当たらない特徴がある。それについて書く前に、ざっといろいろな疑似親子物語に触れておきたい。


個人的に印象に残っている子ども向けのお話は、子ども嫌いのパリのホームレスのおじいさんと家を失ったばかりの子どもたちが知り合って、だんだんと親密になりやがて家族となるという『橋の下のこどもたち』。大人が一方的に子どもに何かを与えるのではなく、大人も子どもとの関係でさまざまなことを学び変化するという、多くの疑似親子物語の特徴を備えた佳作である(レビュー記事はこちら)。
映画では『ペーパームーン』、『グロリア』、『エイリアン2』、『レオン』、『グラン・トリノ』などが思い出されるが、他にもたくさんありそうだ。血の繋がっていない他人同士だと双方がはっきり認識しているからこそ、その関係がやがて実の親子以上に緊密になっていく経過がドラマの見所となる(その点で、映画化された『八月の蝉』は、大人が親子だと子どもに信じさせていたので異なる)。
マンガ・アニメはあまり詳しくないが、すぐ思いついたのは『よつばと!』と『うさぎドロップ』あたり。傑作疑似親子ものがあったら是非知りたい。


『ねことオルガン』に設定がよく似ているのは、山中貞雄監督の『丹下左膳餘話 百万両の壷』(1935)*3 である。孤児になった男の子をたまたま引き受けることになってしまった浪人の左膳がのらおじさんで、彼が居候をしている矢場の女お藤が、のらおばさんに当たる。
ここには別の「百万両の壷」話が絡むのだが、慣れない子育てに右往左往したり喧嘩したりする大人の日常が、とてもユーモラスかつ人情味たっぷりに描かれている。


ところで『百万両の壷』を含め上にあげた映画では、疑似親子が別れるラストにはなっていない。お互いずっとこのままでいたいという感情が、最後で確認される。
リプリーがニュートを死守する『エイリアン2』はやや毛色が違うが、『ペーパームーン』ではアディとモーゼは離れられない仲になり、『グロリア』のラストシーンは互いに駆け寄るグロリアとフィルの姿。いろいろあってやっと絆が結べたのだから、そこで終わるのが感動的というものだ。死別となったとしても、『レオン』や『グラン・トリノ』のように、子どもは擬似親の「遺産」を受け継ぐ。
このような、最後まで関係が途切れない(一度途切れかけても復活する)疑似親子ものが比較的多いし、また好まれるのではないだろうか。「絆」がテーマとしてある限りは。


『ねことオルガン』は、それとは違っている。「いつまでも仲良く暮らしましたとさ」というありがちなオチをつけていないのが、この物語の優れたところだ。
大人は芽生えた情や未練を断ち切り、最後に子どもを新しい世界に押し出す。そこが、その子どもがいるべき世界だからである。子どもは昔自分を守ってくれた大人のことをいつしか忘れるかもしれない、でもそれでいいのだという諦観がそこにある。


これを「子離れ」と捉えれば、実際の親子の物語でも描かれてきたものだ。しかし、赤の他人同士という設定を最大限に生かすことによって、『ねことオルガン』がある普遍性を獲得している点に私は注目したい。
誰でも一定以上の年齢になれば、自分よりずっと若い人に何かを教えねばならない場面に遭遇する。のらおじさんが先輩としてささやかながら「外の世界」を子猫に教えたように、自分のもっている知識と経験を総動員して後から来た人の役に立ててもらうことは、(親であろうがなかろうが)先に生まれた者の「仕事」の一つだろう。
でもその自分のよく知っている世界に、後から来た人を押し込め縛り付けてはいけないのだ。大人にできるのは、若い人がそこを通過してその人に相応しい次の場所に行けるように、後押しをすること。‥‥と、口で言うのは易しいものの、それを淡々と実行するのはなかなか難しい。
のらおじさんは生活能力のあまりない冴えない地味なおじさんだったが、その難しい仕事をやり遂げた。後でそっと様子を見には行ったが、子猫に自分の姿を見せて「恩」を思い出させるようなことはしなかった。
自分が忘れられても、子猫が幸せならそれでいい。なぜなら、子猫から大人の役割を与えてもらったことで、のらおじさん自身も救われたのだから。




「ビーブー ビーブー 子ねこの耳に風がなりました。子ねこの耳がそのたびにぴくぴくうごくのをみて‥‥」 猫をよく観察している人だなと思える箇所がいくつもあって楽しい。後に別の出版社から違う挿絵で出ている(それも絶版の模様)が、初版の久保雅勇の暖かみのある絵がとても良い。小峰書店の幼年創作童話シリーズはこの人が手がけていたようだ。他に『白クマ空をとぶ』、『ぞうのバイちゃん』など。



●参照
『ねことオルガン(今西祐行 絵・久保雅勇)』復刊リクエスト投票 - 復刊ドットコム
もう一度読みたい人はいるものですね。私も投票しています(まだ9票)。
※追記:この記事を読んで投票して下さった人が何人もいて、『ねことオルガン』の総投票数が20票を越えました。一歩復刊に近づいた!ありがとうございます!
※追・追記:2017年8月31日現在、39票です!

*1:追記:この記述について、「擬人化」という手法を知らない人がブコメで突っ込んでいて驚いた。この人は『長靴をはいた猫』も『百万回生きたねこ』も、「猫を猫として捉え」ただけの、猫の生態や性質についての物語(あるいは動物愛護精神を学ぶ物語)だと思っているのだろうか。人間や人生についてのさまざまな見方を学ぶために、子どもにとって親しみのある猫を主人公にし、楽しく読み進められるように猫らしさもちゃんと描きつつ、人間のように喋ったり悩んだりさせているのだということが理解できないのだろうか。それらを「人間の物語」に還元して考えることなしに、そこからいったい何を受取ることができるのだろうか。何でもいいからツッコミ入れたい人なのかもしれないが、よりによってそこにか?と思いました。

*2:この台詞は秀逸である。子どもにとって気になるのは、「この大人はいい人なのか、悪い人なのか」という問題。最初にこの本を読んだ時も思ったのは、「この遠慮のないおばさん猫、味方になってくれるんだろうか」ということだった。だがやがて、子猫もこの本を読む子どもも、「大人のほとんどはいい人か悪い人かで分けることはできない。恐そうな人だってやさしい面をもっている」ということを学んでいくのだ。

*3:豊川悦司和久井映見の共演でリメイクされているらしいが、未見。興味のある人には是非山中貞雄版をおすすめ。