藤田直哉さんへのお答え

(※ 長い追記あります。3/5、三つ目の追記加えました)


藤田直哉さんがtwitterで、先日の記事「自意識のセーフティネットを破って」について、疑問を呈しておられました。







● 疑問1へのお答え
もし餓死しそうになったらカンパを募ればいいのではないでしょうか。この方のように。
http://lunaticprophet.org/archives/14155
当座をしのげるほどカンパが集まらなかったら、生きるか死ぬかそこで考えればいいと思います。
● 疑問2へのお答え
ブラック企業で求められるのは「人の言いなり」ですが、アートでまず求められるのは「自分の言いなり」です。これは「人の言いなり」よりずっと難しいことだと思います。
● 疑問3へのお答え
菊千代が死んだのは、野武士との闘いに肉体を使っていたからです。アーティストをはじめ表現者が使うのは、平たく言えば知性と感性です。全存在を賭けるということは、知性と感性のすべてをそこに傾けるということです。それによって肉体が死に至るというわけではありません。ですが、もし餓死しそうになったら(1へ戻る)。


申し訳ありませんが、私、twitterをやっておりません。ですので記事内容に疑問があった場合、できればコメント欄にお越し下さいますと有り難いです。承認制になっていますが、大抵一両日中にはお返事しております。
どうぞよろしくお願い致します。


もしここをご覧になっていたら、一つだけ質問させて下さい。
上記twitter二つ目の「賛同すると同時に疑問なのはここ」という文面ですが、「賛同」と「疑問」は藤田さんの中でどのような感じで両立しているのでしょうか。もしよろしければ、お聞かせ下さい。





●追記(3/3.0:45)
議論に熱中しておられるので全然気づいてもらえない。というか、こんなところで書いていて気付いてもらえるわけがない。あの記事はたまたまtwitterでたくさんRTされたから目に入ったのであって。
twitterやらないとダメってこと? でもしたくないのよねーコントロール能力ないから。



●追記2(というか本文続き)
気がついて下さったようです。読み返してちょっと不親切な答え方のように思ったので、件の記事のやや中途半端な位置づけについて説明します。
有村氏の記事が話題になっていくつか言及記事が上がり、その一つにつけられたはてなブックマークコメントが目に止まって拙書に書いたことを思い出し、件の記事を上げました。
この経緯を知っている人の、有村氏を念頭においた記事という見方を否定はしませんが、有村氏に読まれることは特に想定していませんでした。彼にこんなこと言っても無駄というブックマークコメントがありますが、それは私も承知しております。
また、こういう背景を知らない(か、関心がない)人々に一つのアート論としてだけ受取られても、それはそれでいいと思っています。以上が「やや中途半端な位置づけ」の意味です。


次に、拙書からの引用部についても補足を加えておきたいと思います。
最後に突然「ナルシシズム」という言葉が出てきますが、これは引用部の一つ前の単元「ナルシシズム市場の広がり」において、自己愛を煽られ「個性」を賞賛される中で「自己表現」が競われる現象について書いているところからきています。ついでなので、その単元に続く引用部の直前の部分を掲載します。

 ここで、第二章で述べた美術教育の背景の話を思い出して頂けるでしょうか。戦前の日本では、”ナンバーワン”を目指す国家主義が社会の中心的優性価値、つまり規範であり、それに抵抗するかたちで”オンリーワン”を賞揚する個人主義としての前衛芸術運動や自由画運動がありました。近代以降のアートは「普通」や「規範」を疑い更新する運動として展開されてきたゆえに、基本的に社会や既成の文化と対立する異物的要素を内包していました。これが戦後まで引き継がれます。
 八〇年代あたりから、”オンリーワン”を賞揚する個人主義自由主義が国家のイデオロギーとして採用され、美術教育の中に根付いてきました。自分を大切にし「自己表現」「自己実現」することが「善」であり、そのための消費活動は当たり前という価値観は、生活・社会・文化の隅々にまで行き渡っています。現在、教育を含むアートの制度も市場も、この価値観なしには成り立ちません。
 つまり現在までの私たちの社会の中心的な優性価値とは、民主主義と資本主義に支えられた個人主義自由主義であり、アートとそれはなんら矛盾せず一致しているのです。アートが登場してくる時、社会や文化に対してそれが(ある意味素朴に)異物であったような時代は過ぎました。アーティストは、この社会の中心的な優性価値にもっとも沿った優等生的な人々ということになります。だからでしょうか、アーティストについてかつてのような「孤独」や「貧乏」や「反社会的」といったイメージはほとんどなくなってきているように思います。
 拙書『アーティスト症候群』を韓国に紹介してくれた翻訳者の方によれば、韓国での若者のアーティスト志向には「芸術家になりたい」というよりは「アートを通して社会的成功を得たい」という欲求が強く、オークションでの高額落札やアートフェアの流行がそれに拍車をかけているとのことでした。「社会的成功」とはリッチな著名人になることです。アーティストになることが、目的ではなくセレブリティになる手段と化している。かつてウォーホルがアイロニーを込めてやったことが、アイロニーではなくなっている。
 日本でこの十年くらいよく言われているのが、若いアーティストの活動期間の短さです。デビューして四、五年でフェードアウトしていく人が多いといいます。三十半ばくらいで見切りをつけたり隣接ジャンルに移行していく人は昔からよくいたわけですが、増えているのは、四、五年の間にメジャーになれないと持続する気力をなくしてしまうという若い人々。
 たとえば芸大・美大の卒業制作展は十数年前から、ギャラリストが有望な若手作家をスカウトする場になっており、学生の方も心得ていて作品の横にファイルと名刺などを置いていたりします。互いのニーズが一致しているわけですからそれはいいのですが、そこで有力ギャラリーからのデビューが決まらないと不安になるという話を聞きました。新卒で就職が決まらないと人生終わりだと思うような「普通」のメンタリティを、「普通」を志向しないはずであったアーティスト志望の若者がもっている。こうなると、「アーティストは自由で、「普通」はつまらない」とはますます言えなくなってきます。


この後が引用部です。一応骨子部分だけ抜き書きします。


アートというジャンルが自意識のセーフティ・ネットになっているのです。しかしそうしたところから出てくる表現が、「私のことをわかって」からなかなか先に進まないものであろうことは、容易に想像できます。

ありふれた存在の「私のことをわかって」表現が人を動かすのは難しい。その「私」の欲望が、「私」自身の存在基盤を問い返すところまで探求されているのでない限り。
この困難はどのように突破できるのでしょうか。

菊千代は闘いの最中に、自分の忌むべき過去のトラウマに直面し、己の始源の傷がどこにあったのかを改めて自覚するのです。

これは単なる人助けではなく、正真正銘「己の存在基盤のかかった戦い」であった。そこにひたすら愚直に向かって行くことで、菊千代は自意識の牢獄から解き放たれたのです。

強大な敵と戦うこと、言い換えれば大変な難問に挑むことだけが、ナルシシズムから解放される道だということを、菊千代の闘いは教えてくれます。


で、藤田さんが問題になさった最後のパラグラフです。

自己の全存在を賭けた描くことの快楽と苦痛の前には、絵が下手とか売れないなんてことは瑣末なことです。「難問」が他ならぬ自分自身であり、何をどう描いても自分の外に出られないとすれば、自分自身の足下をひたすら掘り起こしていくしかないのです。


「自己の全存在を賭けた描くことの快楽と苦痛」は、「己の始源の傷」に接近することから生まれると解釈して下さっていいと思います(「己の始源の傷」とは本書に通っている背骨のようなものですので、詳しくは読んで頂くしかありません。すみません)。
こういう流れですので、「それでは餓死してしまう」という指摘が最初ピンときませんでした。アーティストとて(それだけで食べている人は別として)生業を持たねばならず、それも叶わない場合は家族の経済援助なり奨学金なりを求めるしかありません。他人からのカンパもそれと同じです。
またそもそも日本で、アートの需要と供給バランスがとれることはありえないのではないかと思っています。このあたりも拙書に書きましたが、その一部は記事にも引用していますのでよろしければどうぞ。
「壁がないからアートが売れない」という話



追記3
以下は藤田さんのtweetとは関係ありません。
名指しで指摘されていないので、こちらも名指しを避けてここで反応しておきます。

【某blogへの疑問】 オンリーワンって個人主義じゃないんだよな、もう生理的に、いわば遺伝子レベルからどうしようもなくある、それ。だから自己表現にこだわらず、むしろ世界に添って表出されたもののほうが、生理的にオンリーワン。却って個人主義的自己表現は、その表出を鈍らせてしまう。


私が拙書で便利な言葉として何度か使っている「オンリーワン」とは、特に学校美術教育の中で脈々と受け継がれている個性尊重主義、心情・感性主義を指しています。そして、もともとは必然性があったこの理想があまりに濫用されてきたことによって、現在は若者の自意識を肥大させ浅いアート観を受けつけるものとなっている(オンリーワン症候群)、という批判をしています。
つまり「オンリーワン」とは、安易な自己肯定の道具としての「個人主義的自己表現」を支えるメンタリティだということです。そういう文脈上でしか使っていません(当然、「ナンバーワンよりオンリーワン」と歌われた例の歌の浸透力という現象の含みもあります)。引用部の前にも「自己愛を煽られ「個性」を賞賛される中で「自己表現」が競われる現象」と説明している通りです。
「オンリーワン」と言った場合、一般的に「もう生理的に、いわば遺伝子レベルからどうしようもなくある」「自己表現にこだわらず、むしろ世界に添って表出されたもの」という意味になるのでしょうか。そういう文脈もあろうかと思いますが、個性尊重主義批判においては私が述べたようなかたちで認識されるのが普通だと思います。