75歳の「おねえちゃま」とホームの人々

老人ホームの父のいるフロアに入居している高齢者は20人ほどで、女性が多く平均年齢は90歳だ。
母と私はわりとしばしば父の見舞いに来ているので、同じフロアの人々とはすっかり顔馴染みになった。
特に、愛想が良く、目が合えばいちいち丁寧に頭を下げて挨拶する母は、ここの女性たちに受けがいい。一番奥の父のいるテーブルに辿り着くまでに、よく誰かに呼び止められている。


「あんたは、若いねえ」「そんなことございませんよ」「いーや、若いわ。そんで可愛いわ」「いえいえ‥‥(笑)」
(突然、母のしているスカーフの端を手に取り)「これ、きれいだねぇ」「あらそうですか?」「きれいだわー。あんたによう似合っとるわ」「まぁ‥‥それはどうもありがとうございます」(深々とお辞儀)
「今、何時だね?」「今はえーと、11時15分ですよ」「そうかね。昼のご飯はまだかね」「まだですねぇ。もうちょっとお待ち下さいね」
スタッフの人と間違えられているかもしれない。何故か母のことを「おねえちゃま」と呼ぶ御婦人もいた。先月のこと。
「おねえちゃま!」「はいはい」「秋だから、おねえちゃまはおしゃれしてるのね」「今は冬ですよ。もうすぐ春になります。早く暖かくなるといいですねぇ」。
おねえちゃまと言っても75歳だが、自分より若い「おねえさん」の意味なのだろう。


父のテーブルの向かい側に座っている女性は、そのフロアの中では認知症が軽いようで、喋り方が極めてしっかりしており落ち着いている。父のこともよく観察していて最近は我がままを言わなくなったとか、自分はここに来る前にどこに住んでいて、どこの小学校に通っていたのだという話などを、細かくしてくれた。  
ある時彼女は言った。
「この人(父のこと)はいいねえ。こうやっていつも家族が来てくれて。私はだあれも来んわ。妹が一人おるけどね、それも来ん」
どうリアクションしていいかわからず一瞬口籠った私の横で、母はその人の顔を覗き込み、「また来ますからね。おたくもお元気でいて下さいよ。またお話聞かせて下さいねぇ」と言い、女性は「ああ、ありがと」と答えた。そうか、これでいいのか。
こういうところでは、仕事でずっと若者ばかり相手にしてきた私に比べ、専業主婦でご近所付き合いもきちんとやってきた母の方が、数段コミュニケーションスキルが高い。


父のいるフロアで入居者の家族を見たのは、この半年で2回ほどしかない。母と私はほぼ毎週のように訪問しているが、曜日や時間を決めて来ているわけではないので、特定の曜日にたまたま訪問者がいないということでもなさそうだ。
女性の入居者の場合、夫と死別しており、子どもも遠くに住んでいたり仕事などで忙しくてなかなか来れない、というケースは多いだろう。あるいは最初のうちはよく来ていても、相手を認識できないほどボケしてしまった親がどんどん老いさらばえていく様子を見ているのが苦痛になり、次第に会いに来なくなるということもあるのではないかと思う。
以前は、私たちが食堂に入って父の傍にいる間、半分以上の人がじっとこちらを注視していたので、少し居心地が悪かった。今では「ああ、またいつもの人が来た」という感じになっている。


「今週は何曜日に行く?」と電話した時、「うちだけあまり頻繁に行くのも、アレじゃないかと思うのよねぇ」と、母が言ったことがあった。
母によれば、一ヶ月に一回とか数ヶ月に一回くらいしか家族が来ない人が多いのだろうし、父の向かいに座っている女性のようにずっと誰も来ない人もいる。うちばかりがあまり行くと、そういう人たちに悪い気がするというのだ。
「それに、あの人ばっかり家族が来てるってひがまれて、お父さん虐められたりしないかしらね。学校と同じで、入居者間のいじめもあるんだって」。
そこまで気にすることはないし、会いたいのに我慢してストレス溜めることないと私は言った。
母がフロアの入居者の人々にとても愛想良く接しているのは、母の性格もさることながら、「しょっちゅうお邪魔してごめんなさい。うちのお父さんよろしくお願いします」という気持ちもあるのかもしれない。


父はごくごくたまにしか私や母を認識できないし、時間の感覚もほとんどないので、「父を寂しがらせないため」という理由でしばしば会いに行く必要は、そんなにない。行くのはこちらの自己満足に近い。だから余計に、このモチベーションが低下する時が来る(わからないけど)のが恐い。
2年経ち3年、4年となっていくと、他の家族と同様、私たちの足もだんだん遠のくのだろうか。自宅介護している人に比べたら遥かに楽をしている、お金で楽を買っている私たちでも、「いつになったら‥‥」と思う時が来るのだろうか。