鴨川の鹿、畳の匂い、エスプレッソ

‥‥‥そんなわけで、愛犬の死、愛猫との別れ、気管支喘息と、この2週間続けざまに心身に喰らったダメージで「もうやめて!サキコのライフはとっくにゼロよ!」*1状態だったが、体調だけは何とか回復させ、昨日は特講で呼ばれていた京都造形芸術大学へ。アートプロデュース学科の一回生対象に喋ることになっている。


左京区北白川にある大学を目指して京都駅からタクシーに乗り、川端通りを北上しながら窓からぼんやり鴨川の岸辺を眺めていた私の目に、一頭の雌鹿の姿が飛び込んできた。近くのお寺か神社の境内から抜け出してきたのだろうか、鹿は鴨川の水に四肢を浸して立ち、首を伸ばして川縁の草を一心に食んでいた。
薄緑の川、その中に立つ白い斑の散った茶色い鹿の肢体、濃い緑の草。京都では特に珍しい光景でもないのだろうけど、数秒で過ぎ去ったそれは私の中に、夢の中の不思議な情景のように焼きついた。
何でもない景色なのになぜか、「今見てるこれは、きっと一生忘れないだろう」と直感し、その通りにずっといつまでも自分の中に残っていく光景がある。鴨川の鹿もそこに登録された。


大学のレンガ作りの長い階段を上り、打ち合わせ時間にはまだ早過ぎたので外のテラスで休もうと歩きかけてふとガラス越しに見ると、広大な畳の上で学生が寝転んだり本を読んだりしているではないか。
引き返して棟内に入ると、プーンといい匂いが鼻をつく。エントランスラウンジの半分ほどが、フロアから40センチくらい高くした畳敷きになっていて、学生たちが思い思いにたむろしている。この全体が「ご自由に上がってお使いください。」という、グラフィックデザイナー佐藤卓氏の展示なのだった。
私も畳に腰を降ろして休む。イグサの匂いと畳の優しい手触りに、緊張がほぐされていく。なんとなく特講はうまく行く気がしてきた。


講義タイトルは『日本の美術教育は何を育ててきたか - 「自由」と「個性」の隘路』。去年出した『アート・ヒステリー』の第二章に書いたことをざっくり構成し直しながら、前フリに新ネタをつけて話した。内容を超訳すれば「『型』なくして『自由』なし。『社会化』(去勢)なくして『個性』なし」。当該一回生の他、OB生や他科の先生方や他大学の学生(当ブログの読者!)なども聴講に来てくれていた。
スライド、パワポなどを一切使わず、プリント資料を参照しつつ時々ホワイトボードに板書しながら80分講師が喋り倒す内容は、一回生には若干ストレスフルかもしれないと思ったが、講義後提出された感想文では概ね最後まで緊張感をもって聴いてもらえたようだ(大学サイトのニュースページで当日の模様が簡単に紹介されている)。


終了後、先生方や学生など8人くらいで近くの居酒屋で食事。こういうおいしくてお手頃な店が、大学のすぐ近くにいくつもある環境がうらやましい。
そしてもっとうらやましい、というか感心したのは、この学科では入学してきた学生にガンガン揺さぶりをかけてそれまでの凝り固まった価値観とプライドを容赦なく叩き壊し、さまざまな厳しいハードルを課し、学生同士で競わせ切磋琢磨させる指導がされており(学科長の福のり子先生曰く「アート・サバイバル学科(笑)」)、それが結果的に上級生が下級生を教えるような関係性の構築にも繋がっている、ということだった。
京都造形大というと受験講師時代の私の印象では、少しアクの強い学生に「面白い大学だから」と薦めていた記憶があるが、やはりこの学科にも時々変わり種が集まってくるらしい。一方、肥大化したプライドを捨てきれず離れていく学生も中にはいるという。どんなに研究設備が整い、充実した講義プログラムが組まれていても、人をつくるのは結局人であるという基本的なことに、改めて思い至った一夜だった。
食事の最後に、福先生おすすめのエスプレッソを頂いた。ちょっとこんなにおいしいエスプレッソ飲んだの、54年生きてきて初めてじゃない?と思えるくらいの美味に感動。


帰りの新幹線の中で、自分が癒されているのに気づいた。仕事に行って癒される。あまりないことだ。自分が渾身の力を込めて書いた本に反応し、その内容を本当に必要としてくれる人々に直接会えたということもあったかもしれない。
そして、鴨川の鹿と、畳の匂いと、エスプレッソ。人生最悪から3番目くらいの落ち込みの中で疲れ果てて目も耳も塞ぎがちでいた私の五感を、やさしく刺激してくれたそれらを、私はこれから何度も思い出すだろう。

*1:このネットでよく使われるアニメの台詞、まさか自分が自分のことに使う時が来るとは‥‥。