菜穂子の油絵と1920〜30年代の美術 - ジブリ『風立ちぬ』より

前記事のコメント欄のやりとりから。

>私は美術大学なので、友人もみな菜穂子の絵にばっちり注目して「めっちゃフォービズムだった」などと話しているものですから


私も、ちょっとだけ映った菜穂子の絵、かなりアヴァンギャルドで気になりました。ブラマンクみたいな荒々しい筆遣いでしたね。もう一回観て確認したいです。

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20130730/p1#c1375373636


確認を兼ねて二度目の鑑賞をしてきた。菜穂子の油絵が登場する箇所は、全部で3回あった。


1. 1933(昭和8)年、軽井沢に赴いた堀越二郎が、成長した菜穂子と再会する時。
菜穂子は戸外にイーゼルを立てて油絵を描いている。ちなみにこの場面を切り取った映画ポスターについて、モネが自分の妻を描いた『日傘をさす女』を下敷きにしているのではないかということは、既にあちこちで指摘されている。
  
↑これは最初の作品『日傘をさす女』(1876)から10年後に描かれた習作。最初の作品には息子の半身も描かれている。女性の向きが逆だったりいろいろなバージョンがある。


さて、菜穂子がキャンバスにパレットナイフで黄緑色の絵の具を塗りつけた時にその絵の一部が映るのだが、具体的に何が描かれているのかはよくわからない。ただ全体的に、緑系を中心としたさまざまな色の絵の具が、ざっくり大胆に置かれている印象。「筆遣い」というより「ナイフ遣い」。
堀辰雄の『風立ちぬ』の冒頭では、節子は風でイーゼルが倒れて乾いていない絵の表面が草まみれになったのを、パレットナイフで取り除こうとしているが、ここでの菜穂子はパレットナイフをちゃんと画材として使っている。強くはっきりした色彩もフォービズム(野獣派)風(追記4参照のこと)。
日本の洋画家でいうと、梅原龍三郎(1888〜1986)、佐伯祐三(1898〜1928)の二人が思い浮かぶ。
梅原龍三郎ルノアールの強い影響下から出発し、「二科会」や「国画会」の創設に関わりながら独自の画風を築いていった画家で、華やかな色彩と力強い筆遣いが特徴。佐伯祐三関東大震災の年に渡欧し、マチスの盟友であったフォービズムの画家モーリス・ド・ヴラマンクから批判されて以降、ユトリロの影響もあって、画風がパレットナイフを多用した荒々しい雰囲気に変化していった。
  
梅原龍三郎『秋山(男体山秋色)』(1924)        佐伯祐三靴屋』(1935)


二郎の同僚の本庄が飛行機製造の技術において「日本は20年遅れている」と嘆くが、美術においてはその時差が一気に縮められたのが1920年代だ。
日本の洋画界は1910年代まではゴッホセザンヌなど後期印象派に傾倒する傾向が強かったが、20年代に入って渡欧する画家が増え、ヨーロッパでは1900年代から10年代初めにかけてピークだったフォービズム、キュビスム、ダダ、未来派などの動きが国内でも盛んになった。そこには、プロレタリア革命への夢とアナキズムの匂いも濃厚に漂っていた。
20年代の終わりから30年代初頭、画壇には既に故人となった黒田清輝の影響が残っていた一方で、西欧アヴァンギャルドの流れを組む在野の前衛画家たちが、シュルレアリズムも含めて一通り出揃っている。


いいとこのお嬢さんである菜穂子は教養人でアートにも明るく、あのような大胆で自由奔放なフォーヴ風の画面を作ったのではないかと思った。そこに、後に思いがけない行動の中に強い意思を見せる菜穂子という女性の個性が現れているように感じられた。


2. 菜穂子の姿を探している二郎が、林の小道の入り口で菜穂子のイーゼルを見つける場面。
パレットや筆が出しっ放しなのを横目に見ながら、二郎は小川沿いの小道に分け入っていく。その時背後のイーゼルに掛かったキャンバスが小さく見えるのだが、なんとここではフォービズムは影を潜め、青空をバックに緑の木が一本ごく普通に描かれている平凡極まりない画風になっている。遠目なのでタッチまではわからないが、あまり面白味のない絵だ。
菜穂子は画家ではなく趣味として絵を描いているわけだから、その時の気分で気紛れにいろいろなスタイルを試していたという設定だろうか。あるいは、この時は二郎のことで頭が一杯で、”絵画的な実験”の方にあまり意識が向かなかったとか‥‥。
まあここであまり目を引くアヴァンギャルドな絵づらがあると、その後の泉のほとりのシーンでの菜穂子の恥じらいや古風なやりとりに響くので、あえて印象に残らない凡庸な絵にしてあるのかもしれない。


3. 菜穂子が喀血する場面
予告編の終わりの方にも出てくる。絵の下に倒れたイーゼルの脚が見えるので、制作途中で菜穂子の具合がふいに悪くなり、イーゼルにぶつかってキャンバスごと倒してしまったのではないかと思われる。
かなりラフに絵の具が塗りたくられたキャンバスの上に、鮮血がボタボタ落ちている。絵は白い雲の飛ぶ青空を背景にした樹木を描いた風景にも見える。筆遣いは大胆だが色使いは平凡。どういう絵を描いていたかということより、血を印象づけるためのバックの扱いである。



婚約後に二郎が見舞いに訪れた代々木上原の菜穂子の実家の部屋には、絵画がいくつも飾られていた。子どもの頃から芸術的な環境に恵まれていたであろうことを思わせる。


大正から昭和にかけての美術で注目すべき動向は、教育方面にもあった。欧米留学から帰国した画家、山本鼎が、1918(大正7)年に始めた「自由画教育運動」である。
当時、図画の授業は明治からの流れでお手本を写す臨画教育が引き継がれていた中、山本は子どもが自然に直接向かい各自が感じたままに描くことの重要性を訴え、「自由画」は拠点となった長野県を中心に野火のごとく全国に広がっていった。各地で展覧会が開かれ、現場の教師への影響力はすさまじいものがあったという。
丁度、国産のクレヨンが発売された頃で、クレヨン画も大流行。1923(大正12)年、東京に向かう汽車のデッキで初めて二郎に会った当時の菜穂子は13歳くらいだが、当然自由画の洗礼を受け、クレヨンや水彩絵の具の道具一式も所有していただろう。


震災の前年の1922年には、言葉とビジュアルが一体となった児童雑誌『コドモノクニ』が創刊されている。日本初の大判厚手紙、五色製版オールカラー印刷の大層贅沢なもので、値段も当時の絵本の4、5倍はしたというそれには、第一線の文学者、画家、イラストレーターが集結し、モダンで色鮮やかな紙面を作っていた(こちらのサイトに、当時の都市の子どもたちを夢中にさせたビジュアルが多数掲載されている)。
大正から昭和初期は都市と地方の格差が著しく開いていった時期だが、(大人による)子ども文化の爛熟期でもあった。



昭和12年に発売された「王様クレィヨン」の復刻版。1918(大正7)年創業の王様商會はクレヨン業界では最も古い(創業者の一人は後にサクラクレパスを立ち上げた佐竹林蔵)。


 
『コドモノクニ』1937(昭和12)年5月号付録の「ヌリエノホン」。前衛芸術家として一世を風靡していた村山知義が絵を描いている。帽子の「ボンコちゃん」が家出する話。ロシア・アヴァンギャルドを昇華した非常に垢抜けた絵柄(以上いずれも『コドモノクニ名作選 春 vol.2』(アシェット婦人画報社、2011)の「お楽しみ箱」より)。


都市部で台頭した中間層の恵まれた子女の周囲には、新しいもの、美しいもの、洗練されたものが満ち溢れていたのだろう。それらに囲まれ、大正モダニズムリベラリズムの自由な空気を吸って成長した少女の一人であった幾分アーティスト肌の菜穂子が、飛行機にしか興味のない堅物の理系男子、二郎に惹かれたのは、彼が震災の時の恩人だったからということもあるが、恐怖と緊張感を共有したという「吊り橋効果」も働いていたかもしれない。‥‥人は何がきっかけで誰を好きになるかわからないものだ。


軽井沢のホテルで二郎が出会ったドイツ人カストルプが日本を去った1930年代半ばから、共産主義者への弾圧が強まり、「前衛」は軍事か芸術を指す言葉としてのみ使用されるようになった。シュルレアリズムは明確な政治性を持たなかったが、詩人の瀧口修造と画家の福沢一郎が逮捕された「シュルレアリズム事件」(1941年)以降、日本の前衛芸術は以前にも増して公的活動を著しく制限されるようになる。
他方、皇国主義を強めた学校教育の図画では、ドイツのバウハウスにおける構成主義‥‥色彩と形態と機能の基礎が、軍事や工業生産に役立つ知識と技能というかたちで「工作」に導入される(追記:男子向きに木工、金属加工などの技術が教えられた)。
菜穂子の油絵に垣間みられたようなフォービズムをはじめとした前衛芸術が封じ込められていく一方で、二郎の設計に貫かれたような「機能と美」のデザインが実質的な力を獲得していった30年代から40年代。モダニズムの光と影を見るようだ。


● その他メモ
三菱内燃機製造の工場近くにあるカフェー「フレイヤ」に掛かっていた絵は何だろう。正面の小さいのはベートーベンの肖像画とわかるが、右手のは? 赤い服の女性が数人描かれているように見える。ルノアールっぽい色合いとは思ったがよくわからない。
・アイデアと技術でその道のプロと言われつつ、仕事が戦争に協力、加担する結果となった人は、零戦設計者の堀越二郎に限らず各業界にいただろう。美術界でまず名が上げられるのは、戦時中陸軍の求めに応じて『アッツ島玉砕』などの戦争画を数多く描いた藤田嗣治(1886〜1968)。その画業は戦後、「反戦平和」色一色の画壇で「戦争に協力した」として批判に晒され、ついには日本美術界のタブーとしてそれら戦争画は長らく封印された。藤田はパリに渡り、日本に帰ってくることはなかった。戦後も同じ三菱重工で参事になり、終戦直後禁止されてた航空機の設計に1952年から再び関わることのできた堀越二郎とは、えらい境遇の違い。組織に守られていた人とそうでなかった人、業界の体質の違いなど、さまざまなことが影響したのだろうと思われる。


前衛の遺伝子―アナキズムから戦後美術へ

前衛の遺伝子―アナキズムから戦後美術へ

近代日本の前衛芸術を社会思想と関連付けながら詳細な資料を駆使してスリリングに論じた労作。非常に面白い。



●追記1
二郎と本庄がドイツはデッソウの街を夜散歩するシーンで、政治犯(?)の少年を特高警察(?)が追う場面があるが、壁に映った影や光の表現が、ドイツ表現主義の映画を彷彿とさせると同時に、手塚治虫のマンガも連想させた。‥‥と思ったのは私だけではないと思う。
また、西條八十訳の『風』が二郎のモノローグで挿入されているが、二郎と菜穂子を結びつけるモチーフの一つは帽子で、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」(映画『野生の証明』に使われた)で始まる同じく西條八十の『麦藁帽子』を思い出した人も少なくないと思う。
あと全然関係ないけど、二郎と本庄が入る三菱の工員たちの食堂の壁に「味噌煮こみうどん」のメニュー張り紙を発見して、名古屋人として少し興奮したとか、名古屋の市電が懐かしかったとか、そのわりに名古屋弁が聞かれなかったとか、黒川邸での結婚式の作法は尾張独特のものなのかそうでないのかとか、細かいことが気になり出すとキリがない。


●追記2
夫によると、ジブリの『風立ちぬ』は石原裕次郎主演の『黒部の太陽』(熊井啓監督、1968)によく似ているそうだ。男が困難な仕事に邁進する(プロジェクトX)、待っている女が不治の病で死ぬ、妹(こちらは女性の妹)がいろいろ心配する、仕事で「犠牲者」が数多く出る、など共通点がたくさんある、飛行機(設計、風)とダム(土木、水)の違いだけだというのだが‥‥いくら何でも日活とジブリじゃテイストが違い過ぎるだろと思うが…、私は観てないのでわからない。一つの物語定型を土台にしているということは言えるのかもしれない。


●追記3
また美術とは全然関係ない話で。
3日の夜NHKBSプレミアムで放映された『零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』前編のドラマの中に、堀越二郎が登場していた。海軍との会議で、軍人二人が激しい議論を展開する場面。一人は航空機について「戦闘能力を第一に」、一人は「航続距離を重要視せよ」で互いに譲らない。その二つを両立させることは不可能なので、困った堀越氏は「優先順位をつけてほしい」と言うのだが、まったく平行線のまま。結局これは両方とも実現しないとならないのだなと肚を括る。
これがアニメでは、軍人たちが口々にワーワー言うのに対し二郎は「全力を尽くします」とだけ答え、後で黒川に「おまえ、聞いてなかっただろ」と言われている。ちょっと笑ってしまう場面になっている。
だが実際はちゃんと聞いており、どうしたらいいか追いつめられて悩んでいたのだ。そういう人間臭い描写を避けたのは、監督が二郎について「浮世離れした天才肌の夢見る少年」のイメージを維持したかったからなのかなと思った。


●追記4
追記ばかりですみませんが、今日(8/5)になってこんなの見つけました。
https://twitter.com/macogame/status/358729798702465024
全然フォービズムじゃねーじゃねーか!!! せいぜい後期印象派だわ(つかボブの絵画教室か)。
それにしてもつまらん絵‥‥。お嬢さん趣味ということがよくわかる。
パレットナイフが好きなんですね。そこはたぶん菜穂子の大胆さ、思い切りの良さの現れだと思っておくことにしよう。