先日書いた「うちらの世界」と文化の溝という記事のエントリーページを見たら、現代アートの世界なんて「うちらの世界」とどっこいどっこいかそれ以下ですよね、現代アートってあんなバカやこんな愚行が通る世界ですよね!的なコメントがいくつかあってスターが集まっていた。
はて。わざわざそう指摘されるような変なこと‥‥現代アートは「うちらの世界」と無縁とか、バカも愚行もない世界だとか‥‥言ったっけ。
その記事にアート絡みで書いたことは、
・『三四郎』には、美術についての教養が文化的ステイタスを表すものとして出てくる。
・それと同じように、当時19歳の地方出身者の自分にとって東京の先端アートの世界は敷居が高く、ついていくのに必死になった。
・私から見てアートを含む文化系インテリの人々は、自分たちが語る世界こそ他のローカルな世界を含んだ「世界」だと思っているようだった。
・昭和初期、芸術の世界と大衆との乖離が問題視され議論が起こっていた。
の4点。
最後の方の学生の話は、アートとは関係ない。かつて「文化の溝」の一つは芸術を理解するか否かに見られたが、今、その溝はアニメ・マンガの享受においても見られるという話なので。むしろそれがメインで、芸術話はそこに行くまでの長い前振り。*1
そういう記事に、「現代アートだって「うちらの世界」と変わらんじゃん、ケッ」(「ケッ」はブコメのニュアンスからそう感じたということに過ぎないが)といったコメントが幾つもつくのが、最初はちょっと不審だった。私、別にここで現代アート擁護なんかしてないし……と。
少し経って、「うちらの世界」関連でアートの話題を出しているのに、「アートも「うちらの世界」と同じだ」という当然すべき批判をしていないのはおかしい、だからつっこむ(つっこみに賛同する)ということかと思った。
一応自分の立場を書いておくと、ブコメでも触れられているようなネットで話題になったり問題視されたアート関連の出来事については、批判的な発言を度々してきた。アートの世界がいかに「うちらの世界」化しているかについても過去に書いている。著書(文庫版『アーティスト症候群』あとがき)ではChim↑Pomの「ピカッ」やドブス写真集などを例に上げた(カオスラウンジの件はその時まだ進行中だったので触れていない)。
それを踏まえて前の記事でも、前田河広一郎と辻潤の議論のところで、芸術の「うちらの世界」化の話は現代にも通じるのではということを書いたのだが‥‥、ネットで見る「現代アート」にうんざりしている人からすると、そんなんでは何も言っていないということなのだろう。よくわからないので推測だけど。
しかし記事で「(現代)アート」に触れつつそれがはっきり批判の対象として論じられていないと、とたんに「(現代)アート、プゲラ」的な反応がいくつも出たりする現象は、ネット(の一部?)で現代アートがどのように捉えられているか知らない人から見たら、ちょっと異様な感じかもしれないとも思った。
アートをやめてから10年。「溝」の底でずっと左右を見上げている気分だ。