粘土と言葉

学校で人体彫刻を学んでいた期間だから、だいたい16歳から20歳くらいの頃。塑像の心棒を作るのが嫌いだった。
小割り(3、4センチ角の角材)と番線をシュロ縄で括りながら組み立てるのだが、これで大丈夫と思って粘土をつけていくと、中の心棒に対して過剰に粘土がついてしまったり、逆に小割りの端が表面に出てきてしまったりということが時々ある。心棒を作った時点での、量の中心の見極めが甘いからだ。


心棒を作る前はクロッキーを何枚も描いていて、「こういう感じで」というイメージがある。ところが粘土をつけ出すとだんだんそのイメージが弱く思えてきたり、「もうちょっとこうしたい」という予定外のことが出てきて、その結果、心棒と粘土の量がバランスを崩す。
仕方なくつけた粘土を一旦取って、その部分の心棒を足したり切ったりして作り直す。モデルさんを囲んで作っているクラスメートたちは、「あーあ‥‥」と笑い半分同情半分の眼差しだ。誰しも、一度くらいはそういう経験があるので。


高校の美術科の時、心棒作りにとても凝る先輩がいた。心棒の時点でもう彫刻になっていて、下手に粘土なんかつけない方がいいんじゃないかと思えるくらい、作り込んでいた。それを見て凄いなぁと思ったが、そういうふうに作りたいとは思わなかった。
私はできれば心棒のことなど考えないで、粘土を取ったりつけたりしたい。だから心棒はできるだけシンプルな方がいい。途中でイメージが変わってきても、どんどん動かして変えていけるように。その方が、作っていて楽しい。「やり直し」は大変だけれども。


大学3年頃に、私は伝統的な人体彫刻からも塑像からも遠ざかった。それから長い時間が経って、今、塑像を作る代わりに文章を書いている。
なぜ代わりのように感じるかというと、そこで自分のしていることが同じだからだ。粘土が言葉に置き換わっただけ。


最初は「こういう感じで」とイメージをもち、全体の骨組みを一応作ってみるのだけど、書いているうちそれと矛盾する箇所や脱線する箇所が出てきて、骨組みそのものを修正しないとならなくなる。
全体の骨組みをきっちり作り、そこに過不足なく言葉で肉付けできる人は凄いなぁと思う。でもそういうふうに書きたいとは思わない。
私はできれば骨組みのことなど考えないで、言葉を取ったりつけたりしたい。だから骨組みはできるだけシンプルな方がいい。途中でイメージが変わってきても、どんどん動かして変えていけるように。その方が、書いていて楽しい。「やり直し」は大変だけれども。


彫刻でも文章でも私の場合、後で中心が見えてくる。手と頭を動かしているうちに、「私はこれが言いたかったんだ」ということがわかってくる。
それが作品として提出される時には、あたかも最初にきっちり骨組みがあってから、順当に肉付けがされていったように見えるだろう。でも、本当は違うのだ。本人も半分くらいしかわからないまま、始めている。
「私はこれが言いたかったのか」と、自分で自分に驚けるようなところまで行きたいものだ。