「公募展」をめぐって

茂木健一郎による「国立新美術館」と「公募展」批判 - Togetter
公募展をめぐるツイートあれこれ - Togetter
会田誠とパルコキノシタの公募団体に対するやりとり - Togetter


脳科学者の茂木健一郎氏が国立新美術館で開催されていた『アメリカン・ポップアート展』に感動しつつ、その会場の隣で開催されていた公募団体展*1 を「ポリシーなし、キュレーションなし、単なる愛好者の団体」「「国立新美術館」でやる「公募展」が「アレ」なんてことは、まともなアート関係者はみなわかっているのに、誰もそれを言わない」「現代のアートにつながる文脈や批評性は、ないから」「あるのは年功序列と新陳代謝のない停滞」とコキおろしていたのに対し、Twitterでさまざまな反応が出ていた。
面白かったので、「公募展」で検索して出てきたtweetの中から、個人的に目に止まったものをピックアップし、勝手な補足や自分の意見などを書いてみる。特に結論はないです。



公募団体展とその周辺のすごく簡単な解説を。
文展とは今の日展(戦前は一時期「帝展」とも言った)。明治の中頃、混乱していた日本の美術界を整理するために文部省が作った「文部省美術展覧会」のことで、国家のキモ入りの制度として始まっている。フランスのサロン・ド・パリ*2 と似ている(黒田清輝がフランスから帰国して以降、日本の美術界のお手本はフランスであり、長い間、芸大入試に石膏デッサンが課せられてきたのも、エコール・ド・ボザール(国立美術学校)を真似たからだ)。
文展から分離独立したのが二科会(二科展)や日本美術院院展)。その後も枝分かれのように分岐し、いくつもの公募団体展が作られていく。
一方、大正から昭和初期には前衛美術運動が勃興し、公募団体展とは異なるさまざまなグループが活動した(多くは次第に弾圧の憂き目を見る)。
いずれにしても権威的な文展、あるいはそれを中心とした「画壇」に対抗する流れを作ることそれ自体が、日本のモダンアートの運動と重なっていた。


日展を中心とした公募団体展作家が第一線で活躍していたのはだいたい戦前、遅く見積もっても1950年頃までだったようだ(学閥的なところでの影響はずっと続いた)。
1947年には党派を越えて集結した美術家たちによる美術団体、日本美術会による「第一回日本アンデパンダン展」(アンデパンダンとは無審査・自由出品制の展覧会)が開催され、先鋭的な前衛美術協会をはじめ、いくつかの美術団体にアーティストたちが集結し、既成の公募団体を中心とする画壇に対抗した。


1949年からの「読売アンデパンダン展」は新人発掘の場として始まり、60年前後にネオダダなどの前衛ムーヴメントを生み出して話題となった。戦前からの公募団体展は現代美術のアーティストにとってとっくに、旧態依然とした”美術老害”と見なされていただろう。
そうした権威の総本山だった東京芸大に、68〜70年の学生運動のピーク時、多摩美全共闘がデモをかけたのは有名な話である。多摩美武蔵美はもともと、官の芸大に対する在野としての性格が強かった。



(それってVOCA展のことかしら‥‥)



政治と似ていて、公募団体展の周辺にあるのは「”先生”文化」である。
会員の作家はカルチャーセンターなどの絵画教室で教えている先生で、その地方に「お弟子さん」が何人もいる。弟子の弟子もいる。偉い先生に習うことがステイタスとなり、偉い先生に引き上げられることが名誉となり、先生は先生同士のヒエラルキーをめぐる政治があり。「利権争い」もそうした「”先生”文化」から起こってくる。



クロッシング」は森美術館主催の現代美術展『六本木クロッシング2013』のこと。「駒展」はこちら。なるほどだいぶん展覧会の雰囲気は違っていそう。でも、そういう背景から切り離して個々の作品だけを比較したら、それほど大きな違いはないかもしれない‥‥という感じも。



もう10年くらい前だと思うが、美術評論家椹木野衣氏が、「日展に出品されているものの中にも、すぐれた見るべき作品がある」ということを『美術手帖』に書いていた記憶があるので、そのあたりから「「現代美術」のポジションから嗤う、みたい」(次のtweetから引用)なスタンスは徐々に変化し始めたのではないかと思う。



私事だが、美術愛好家の高校教師だった父が、同僚の美術の先生からいつも日展のチケットをもらってきていたし、自分の入った高校の美術科が日展の先生ばかりだったので、物心ついた頃から高校3年まで、毎年日展を見に行っていた。二科展や行動展、その他の公募展も時々見た。
60年代から70年代の話である。「いいな」と思う作品も「好きじゃない」と思う作品もあった。それまでの経験で言えば、私は「日展育ち」だ。大学に入ってだんだんと現代美術に関心を持つと同時に、日展に代表されるものを忌み嫌うようになった。



六本木クロッシングは見ないが、フェルメール印象派は見に行くし、日展も見るという人は多そうだ。「お友達が日展の△△先生のお弟子さんに絵を教わっていて、チケットを売らなきゃならないってんで買ってあげたから見にいくわ」という人も結構いるだろう。つまり人間関係で動員されている部分も大きいのでは?と思う。現代美術もそういう一面は多分にあると思うが、きっと規模が違うのだろう。



そうでした。少なくとも現代美術の人にとっては「仮想敵」のようなものだったし、いろいろなところで日本の美術の二重構造の問題として言及されていた。
昔の現代美術のアーティストが公募団体展の作家たちといかに一線を画そうとしていたかについて、拙書に書いたことがあるので抜粋。

[‥‥]つまり、当時(注:80年代前半)の日本の美術業界周辺で、アーティストと言えばそれは大抵、現代美術の作家のことを指していた。かりにアーティスト本人が頑なに美術家と名乗っていようが画家と名乗っていようが、作品が現代美術の文脈、範疇ならアーティストである。 
 となれば、日展などの団体展に出品しているオーソドックスな絵や彫刻を作る作家、花鳥風月を描く日本画家は、アーティストに含めないのが普通。アーティストと呼ばれる者は、金ぴかの額縁に入れて応接間に飾るような絵を描く者ではない、という暗黙の了解がある。もちろん「日展のアーティストは‥‥」とは決して言わない。あくまで「日展の作家は‥‥」とか「日展系の絵描きは‥‥」である。現代美術の人はなんだか日展を目の敵にしているみたいだが、まあだいたいそういうことである。
 たとえば、もし印象派が最先端の時代に印象派風の絵を描いていた画家なら、それは"その当時の現代美術作家"なのだからアーティストと言ってもよろしい。しかし、いまだにシャガールユトリロ劣化コピーを生産しているオールドタイプを、アーティストと呼ぶのはちょっと。額縁絵画の奴らとこっちは違うのだ。
 そんな細かいこと言わず、美術やってる人は全部ひっくるめてアーティストではいかんのか。いや、いかんことはない。今はほぼそうなっている。どんな古臭い絵を描いていても、アーティストと言われている。が、現代美術作家というのは、オールドタイプとは明確に一線を画しているという自負があるものだ。それは今もあまり変わらないだろう。当時の「アーティスト」という言葉は、その自負を支えるつっかえ棒の一つであった。


(『アーティスト症候群』(2008)より)

この30年くらいは私の知る限り、『美術手帖』で「公募団体展のモンダイ」とか「日展とは何なのか?」みたいな特集を組まれたのを見たことはないが、「違う星の人」と思われていたのであれば当然か。ラッセンも然り。



公募団体展作家もその観客層も、高齢化が進んでいるのではないだろうか。6年前、拙書に「芸能人アーティスト」について書く関係で、二科展出品の工藤静香の絵を見に行ったことがあるが、若い観客は本当に少なかった。



東京美術学校黒田清輝を初めとして、美大の教授は昔から公募団体展の会員作家が占めてきたという長い歴史があるので、1980年代くらいまでの美大や芸大は、団体展所属の教授の力が強かったと思う。
私は彫刻科だったが、予備校の講師から新制作展の作家たちが多かった。新制作協会は1945年に出来た会派で、公募団体全体の中ではリベラルな方という印象がその当時はあった。芸大は舟越保武、造形大は佐藤忠良、日大は柳原義達という「重鎮」が長らく教授を務め、その影響力は非常に大きかった(多摩美は小清水漸、武蔵美は若林奮という現代美術の‥‥とまで言えるかどうかわからないが、公募団体展系とは明らかに異なる現代彫刻の作家がいたので、かなり雰囲気が違ったと思う)。
芸大は油画科に工藤哲己や榎倉康二がいて現代美術志向の学生の拠り所になっていたが、彫刻は油画より遅れていた。日本画科だとどこの大学でも日展院展、創画会のどれかに所属しなければならない風潮が、わりと最近まであったのではないだろうか。
最近は現代美術の作家もかなり大学に入るようになって、変わってきている模様。



「美術」と言ったらまず日展日展を見に行くことが、年に一回のイベントとなっていたりした。そういう人々をはじめとして、裾野の方の美術愛好家たちの層の積み重ねがあって、やっと現代美術の受容がある。
これは、地方都市に住んでないとわからない感覚かもしれない。



去年の「ラッセン展」(『ラッセンとは何だったのか?』の起点となっている展覧会)は、その「全く交わらないくらい明確に住んでる世界が違う」作品を一堂に展示することで、改めて制度によって生じた亀裂を浮かび上がらせると同時に、作品単体を個々の背景、文脈から一旦切り離して鑑賞させようとする、アクロバティックなものだった。


特定の業界の中だけに目が向いていると、「外から眺めてる人たちからは全て同じに見える」ことに気付かないということもあると思う。また気付いた時に「どのように世界が違うのか」を説明するのも難しい。
ラッセンとは何だったのか?』の鼎談で中ザワヒデキ氏は、「僕はもともと医学部の出身で、まず医者になったんですが、例えば当直の時に看護婦さんから言われるんです。「中ザワ先生は絵を描いていらっしゃるんですよね?私、画家といえばヒロ・ヤマガタが大好きなんです!先生もお好きですよね?」って。美術とはなじみの薄い人の間に身を置いていると、絵を描いている、イコール、ヒロ・ヤマガタが好き、と連想するようです。それに対して違和感を感じつつも、うまく答えることができなかった」と述べている。


私も昔、「彫刻はロダンが一番素晴らしい」と信じて疑わない父から、「芸大にまで行ったのに、なんでロダンみたいな人体彫刻作らないんだ?」と問われ、一生懸命説明したが最後まで納得はしてもらえなかった。
また地方都市に住んでいて、地元で知り合った人と美術の話になって、うっかりそのジャンルに関わっていたなどと言うと、「じゃあ◯◯会の△△先生ご存知?」と目を輝かせて言われて困ってしまうことがある。「すみません、知らなくて‥‥」で、「そうですか」と流してくれる場合はいいのだが、「あら、この辺じゃ有名な方ですよ、□□先生のお弟子さんでね(□□先生はもちろんご存知よね)、ついこの間も××デパートで展示が」となっていくとお手上げ。
「いやその日展の人とか、私あまり知らないんですよ。ごめんなさい」「じゃあ先生は(私のこともいつのまにか「先生」になっている)、どこの会に出していらしたの?」「どこにも」。もう「現代美術の方で‥‥」と言いにくくなっている。



以上は、現代美術のアーティストの呟き。アートということを離れて見たとしても重要なことが呟かれていると思ったのでピックアップした。


美術というジャンルそのものがそもそも、「生きづらさ」からそこに流れてくる若者の受け皿となっている面があることを、この30年そういう若者たちを見てきて感じる。
だがモダンアートは常に「父」を乗り越えていく「息子たち」の闘争の歴史でもあったわけで、それが「父」の下に「息子たち」を庇護(支配)するかのような構造をもつ公募団体展として残っているのは、皮肉だ。



以上、公募団体展所属のアーティストの呟きから抜粋させて頂いた。



良い悪いは抜きにして、この世代(50歳前後)くらいまでの、地方都市出身の現代美術のアーティストが輩出されてくる下地には、公募団体展的なものへの反発が関わっている部分がかなり大きいのではないかと思う。



「作品はいいか悪いか」。現代美術のコンテキストに囚われないということになるならば、「いい悪い」の基準をどこに求めるのかが問題になる。ものすごく大雑把に言って「強度」ということになるのだろうか。しかしラッセン問題でも浮上したように、「強度」と「審美」の関係はどうなるのか。また、「誰」が「いい」と言ったかという問題も関わってくるのではないだろうか。

*1:日展をはじめとして二科展、院展、国展、行動展、新制作展など多数ある。単に「公募展」というとデザインや現代アート方面の比較的新しい公募展も入ってくるので、戦前から続く絵画・彫刻を中心とした公募展と区別するために、ここでは「公募団体展」と呼ぶ。日展などは、評議員、会員、会友、一般公募者といったヒエラルキーがある。一つの会社組織のようなもの。

*2:フランス芸術家協会(アカデミー)を母体とし、エコール・ド・ボザール(国立美術学校)と共に国家の保護を受けてきたアートの公共事業団体で、ドラクロアクールベ、マネ、モネなどビッグネームを輩出した。20世紀以降は旧画壇としてアートシーンでの存在感を失ったが、巷の美術愛好家には親しまれているらしい。