「お世話になっております」の世界

仕事のメールの冒頭に必ず「お世話になっております」とつけるのは、何故なんだろう。
世事に疎い私だが、最初にそのメールをもらったのは、非常勤で行っている私立学校の教務からの事務連絡だった。こちらはその学校に講師として雇われている、つまり「どちらかというと、こちらがお世話になっている」という感覚があったので、少し戸惑った。
たとえば生徒の親が講師に「お世話になっております」と言うことはあっても、学校側が講師にそれを言うのは変じゃないか? 私は労働力を提供して報酬を貰っているのであって、別に学校を「お世話」したことはないわけだし。


そう思っていたところ、別の勤務先の常勤講師の人から電話があった。その人も冒頭で「いつもお世話になっております。◯◯校の△△です」と言った。私は急いで「こちらこそお世話になっております」と返した。
常勤講師は組織に属する人だから、この場合は学校を代表して喋っているのだろう。つまり仕事を依頼する方も引き受ける方も、互いに「お世話になっております」を使っていることになる。
そう言えば、編集者からのメールの冒頭も大抵「お世話になっております」だった。これも当初、「私、何もお世話してないけど‥‥」といぶかしく思ったが、要は「一緒に仕事をしている間、利害関係がある間の儀礼的挨拶」ということなのだなと、やがてわかった。


一般的なビジネスメールでは、ごく当たり前の挨拶、マナーとなっているらしい「お世話になっております」。調べてみたら、取引先など企業間のみならず、企業が顧客に対して使うことも、その逆もある。
ここで例に出されていたのは、設計士と家主の場合。設計士は「仕事のご依頼(ご愛顧)ありがとうございます」の気持ちを、家主は「よろしくお願い致します」あるいは「良いお仕事、ありがとうございます」の気持ちを込めて、互いに「お世話になっております」と言う。それは不自然ではないと。
労働力やサービスを提供する側/対価を支払う側。雇われる非常勤講師/雇う学校の関係と同じなのに、たしかにこちらには違和感がない。設計士と家主は、互いの条件が合わなければ他の相手を捜せばいいという関係だ。どちらがどちらに強く依存しているということはなく、対等な立場で契約している場合、相互の「お世話になっております」は挨拶としてまあ普通に思える。
非常勤講師と学校の関係は、そうではない。非常勤の代わりはいくらでもおり雇い止めもできるが、突然解雇された側が次の仕事を探すのは至難の業。だからクビになったら困るなぁとビクビクしながら働いている私は、「もう少し給料上げてクダサイ」「コマが欲しいです」と言う勇気もなく、卑屈に「お世話になっております」という態度になりがちで、学校側から「お世話になっております」と言われたりすると軽くビビり、次にその言葉の形式的な空虚さから来る慇懃無礼さにひんやりした気持ちになるのである。


話が逸れた。
「世話」には、「面倒をみること。尽力すること」「間に立って斡旋(あっせん)すること。取り持つこと」「手数がかかってやっかいであること。面倒であること」といった意味がある。「世話をする側」がいて、「世話になる側」がいる。その関係はどこまでも非対称だ。だから「お世話になりっぱなしで申し訳ない」「お世話になった御礼をしたい」という言い方が出てくるのだ。
つまり「お世話をする/お世話になる」とは本来、最初に何らかの契約を交わして行われる対等のビジネスではなく、一方から一方へ、善意の贈り物というかたちを取って行われるものである。
だが、お世話された側がその贈り物(善意)を貰ったままでは、非対称の関係が固定されてしまうので、何らかの返礼をしようとする。物や金銭や行為や、それも無理ならせめて言葉で。


そういうことが積み重なっていった結果、最初から暗に返礼織り込み済みの「お世話」も多くなっているだろう。だがここで重要なのは、あらかじめビジネス契約があっては「お世話」の意味は成立しないということだ。
最初にあるのは、「お世話する/される」という非対称な関係である。次に、それを対称に戻そうという運動が「された」側から起こる。そして時に、対称になる以上のお返しをする。だってまた「お世話」になることがあるかもしれないから。
人間関係には、この「非対称な関係から対称な関係への運動」が常に働いている。いや、対称な関係で終わるとそこで止まってしまうので、「非対称な関係を覆そうとする逆の非対称関係への運動」と言うべきか。
こうした対人関係における運動を圧縮して制度化したのが、契約だ。それで、何らかの契約を交わした仕事関係において、「お世話になっております」が相互の儀礼的挨拶として定着した。そう考えると、一応納得はいく。



一方が使っても、もう一方は使わない場合もある。例えば医療や教育の場。そこで「お世話になっております」は、医師や教師に向けて、患者(の家族)や生徒(の親)からのみ発せられる。逆はない。労働力やサービスを提供する側/対価を支払う側という点では、設計士と家主の関係と同じなのに、なぜ?
おそらく一番大きいのは、医師や教師の仕事の対象が「物」ではなく「人」であるという点にある。
一番最初の医療、一番最初の教育というものは、家族という親密圏で行われる。子どもが擦り傷を作ったら消毒してバンドエイドを貼ってやるのは親。子どもに最初に言葉を教えるのも親。「お世話する/される」関係は非対称だ。
親がいなかったら、親に当たる人がそれをする。傷の手当や言葉の教育を先延ばしすることはできないから、お返しが来るかどうかわからなくても、誰かが「お世話」をしなければならない。
それは一種の贈り物である。あれは贈り物だったのだと受取った人が気づいた時に、何らかのかたちで返礼がなされる。ただ、贈り物をした当人に宛ててとは限らない。誰かの傷の手当を率先して行うことで、それは間接的に返礼となる。そこで口には出さないが現れるのは、「自分も誰かのお世話になったから」という思いだろう。「お世話になっております」時期は過ぎ去ってしまったので、過去形だ。


‥‥と回り道をしたが、病院と学校は家庭に代わって、人を預かり「お世話」する場所である。対価を貰うのだからそれは純然たる贈り物とは言えない。返礼織り込み済みの「お世話」である。しかし、「する/される」という物理的に非対称な関係は、そのまま残っている。それで預ける側も自然と「お世話になっております」という言葉が出る(「ヤブ医者め」「バカだこの教師」と思えばもちろん言わない)。
これに対する正しい返答は、「当然のことです。お預かりした以上、責任持ってお世話させて頂いております」であろう。もっとも実際はそんなことは言わず、「いえいえ‥‥」とか何とか口の中でモゴモゴして誤摩化すことが多いと思う。きっと皆、心の中で言っているのだ。


もう一つ、医師や教師が「お世話になっております」を言えない理由がある。
設計士にしても一般の商店主にしても企業にしても、顧客や取引先への「お世話になっております」は「毎度ご愛顧ありがとうございます」といった程度の意味だ。そこには時に「今後も末永くよろしくね」という意味も含まれる。
これを医師が患者に言ったらまずい。医師や病院としてはお客さんに来てほしいのはやまやまだが、それが「毎度」だったり「末長く」なったりするのは、患者本人にとっては不幸なことだから、あからさまに望んではいけない。
学校や教師も同じだ。いくら教えても成果が出ず落第に次ぐ落第の学生がたくさんいたら、その分たくさん授業料が入ってくるから助かる、なんてことは職業倫理的には口にできない。しっかり勉強してとっとと卒業していって下さい(でもたまに思い出してくれると嬉しいな)くらいのことしか言えない。


ビジネスマナーになっている慣用句の「お世話になっております」は、コミュニケーションの潤滑油である。そういうものも世の中に必要なのだろう。互いに「お世話になって」いるwin-winの関係。でも「お世話」の本来の意味はそこにはない。
非対称性の中で使われる「お世話になっております」においてのみ、いつまでもこの状態ではいけないという思いと、「非対称な関係を覆そうとする逆の非対称関係への運動」が生まれるのである。その運動だけが、人間関係を作っていく。




●追記
ほぼ日刊イトイ新聞 - オトナ語の謎より。

お世話になっております
(提供者:多数)
オトナ語の基本中の基本。
 オトナの世界はまずこのひと言から始まる。
 わざわざ書くのがバカバカしいほど基本的なことだが、
 ほんとうにお世話になっているかどうかは
 まったく関係がない。
 とにかく、「お世話になっております」!
 開口一番、「お世話になっております」!
 むしろオレがおまえをお世話してるんだよと思いつつも
 「お世話になっております」!
 あなたと私は絶対に初対面であるけれども
 「お世話になっております」!
 たとえ、先方の電話に出たのがベッカムだとしても
 「お世話になっております」!
 たとえ、メールを送る相手がローマ法王だったとしても
 「お世話になっております」!


ちょっと笑った。