「山本太郎お手紙事件」に見るメシア願望

話題としては既に古くなった、山本太郎参院議員が秋の園遊会天皇に手紙を渡したという”事件”。この件で最初に思い出したのは、かつて斎藤環が『新潮45』9月号の速水健朗との対談「「ヤンキー政治」にご用心!」で、山本太郎について言った「ニューエイジヤンキー」という言葉だ。


速水健朗の意見は、「山本太郎の支持層とヤンキーはあまり結び付かない」し、あれは「左翼が陰謀史観に流れていく典型」というもの。一方、斎藤環は「ヤンキーがインテリの思惑の中で別の可能性を開いてしまった特異例」だとし、山本太郎本人はヤンキー的だと言う。
山本太郎は「ある地点で思考停止してしまう面があり、極端な危ない証拠を連呼するだけで、客観性を保つための情報収集を拒否」している「シンプルすぎる非知反原発」。だがそのシンプルさ、見かけのわかりやすさでポピュラリティも獲得した。そうした性質は、斎藤環が言うところの「ニューエイジヤンキー」(その典型例がラッセン)の流れにあるものらしい。
ここでラッセン山本太郎が結び付くとは思わなかったので思わず笑ってしまったのだが、”お手紙事件”の後で考えてみると「山本太郎ニューエイジヤンキー」は非常にしっくりくる。笑えないくらいしっくり来る。


熟慮すべきことも「気合いとアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」(斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』より)でやっつけてしまうのがヤンキー的メンタリティだが、極端な反原発主義をニューエイジ的であるとするのは、言うまでもなくニューエイジにディープエコロジー志向があるからだった。
さらにニューエイジは、個と大いなるもの(見えない世界とか宇宙とか)を直に結びつけるスピリチュアル思想と重なっている。間にある諸々の社会など複雑なシステム、機構を一挙に飛び越える点は、セカイ系に近いとも言える。
天皇は日本国の象徴にして日本の伝統文化と精神(スピリチュアル!)を体現する存在と見なされている。原発問題を訴えるため、「気合い」の出たとこ勝負で、間にあるものを飛び越えて天皇に直訴する感性は、まさにニューエイジにしてヤンキー。そして斎藤文脈ではヤンキーメンタリティをもつ人々が日本人の主流派である以上、「ニューエイジヤンキー」も潜在的には主流派となりうる可能性を秘めている。*1


巷では非常識、不謹慎、短絡的、パフォーマンスだと散々叩かれていたが、以上のことを考えるとこれは特別な、特異なケースではない気もしてくる。
山本太郎の行動にあった「神頼み」的なメンタリティは、多くの人が無意識のうちに共有するようになる、もしくはそろそろなっているのではないかと。


巨神兵という核兵器のメタファーが地上を破壊し尽くした後の汚染された世界に、救世主が登場し皆を救済する‥‥というのが、アニメ『風の谷のナウシカ』のテーマだった。今年も授業で扱ったが、「希望を描いているように見えるが、同時に絶望も感じとれた」という、3.11以後ならではの学生の感想レポートがあった。
福島第一原発の爆発による汚染された世界に、メシアは現れない。「汚染水はコントロール下にある」という公式見解とは別に、現場で日々困難な取り組みが続けられているという情報が細々と伝わってくるだけだ。事態が好転した、もう大丈夫という話は出てこない。だったらあとは「神頼み」しかないではないか(もちろん天皇は神でも救世主でもないが他に誰がいる?)‥‥となっても不思議ではない。
「議員のくせに議会制民主主義を無視している」「天皇を政治利用している」と批判した人々だって、心のどこかで「誰か強い影響力をもつカリスマがこのどんづまりの状況を少しでも変えてくれたらいいのになぁ」と思っていないとは限らない。でなかったら「脱原発」を主張し出したかつての人気政治家・小泉純一郎がこんなに引っ張りだこになるわけがない(よくよくそういう空気の読める人だと思う)。


さまざまな民主主義的手続きやシステム、制度への不信が強まりうっすらとした絶望感が蔓延していった時、強大な力で物事が解決されることを人は夢みるようになる。何か大きなものにすがりたい。大きなものと繋がりたい。それは一種のメシア(救世主)願望だ。
宗教的なものもそこから復活してくるだろう。従来の教団宗教とは異なるかたちで。たぶんそれを止めることはできないだろう。「ニューエイジヤンキー」山本太郎はその少し早過ぎた例だったのではないかと思う。



●「ヤンキー」解説
斎藤環の言う「ヤンキー」は、いわゆる一部の不良だけを指すのではなく、日本独特の「フェイク」な大衆文化を受容する層。故・ナンシー関が言ったとされる「ヤンキーは日本最大のマーケット」を受けている。
ナンシー関はかつて芸能界の美意識を指して「ヤンキー」と看破した。そこから斎藤は、「われわれの日常の大部分が、ヤンキー的な美意識によって覆われていることになりはしないか」(『ヤンキー文化論序説』五十嵐太郎篇著)と考察を始めている。


ラッセンとヤンキーを結びつけた拙記事では「どんなに頑張っても今いち垢抜けず安っぽい趣味に染まりやすい田舎者」と書いた。もちろん普段アートだの何だの言っている自分の中にも、そういうヤンキー要素があることを自覚している。
ただ「ヤンキー」という言葉は論者によって使い方が異なることもある。速水健朗斎藤環の違いはこの記事参照。


他、[ヤンキー]タグで関連記事を書いています(ヤンキーという言葉を含まないものもあり)ので、ご興味のある方はご覧下さい。
ヤンキー記事一覧 - Ohnoblog2

*1:そういえば、「天皇」の傍にはヤンキーがいつもいる。天皇即位10周年の記念式典で御前演奏したのはYOSHIKIだった。天皇即位20周年の記念式典で歌ったのはEXILEだった。その少し前、愛知万博岡本太郎の「太陽の塔」の向こうを張って「大地の塔」を作った藤井フミヤは、訪れた皇太子夫妻に「この塔の前で手を繋ぐと幸せになれる」と、とてもスピリチュアル感溢れる発言をしたそうだ。