母のこと

毎週1回、仕事帰りに父のいる老人ホームを訪ねているが、時折「さっきお母様がいらしてましたよ。入れ違いでしたね」と言われることがあったりして、たまには時間を合わせて一緒に父を見舞おうということになった。
講義が終わり急いで昼食を済ませて行くと、母はもうだいぶ前に来てひとしきり父に話しかけた後だったらしく、一人でぽつんと食堂の隅に座っていた。改めて二人で父の個室へ入る。父は呼吸を助けるための酸素の管を鼻に通したまま、よく眠っていた。


「お父さん、パパって何度も大きな声で話しかけたけど、今日はダメね。全然反応しない」と母が言った。
循環機能が悪くなっているせいで一時期浮腫んでいた父の顔は、ややげっそりした感じになっていた。そっと布団をめくってみると、浴衣の寝間着の間に膝を曲げた信じられないくらいに痩せ細った脚が見えた。骨の形も露な膝の関節部分、それより細い完全に肉の落ちた大腿部。マラソンが好きで、かつては筋肉質だった父の脚とは思えない貧弱さ。
以前に一人で来た時は眠っている父の顔をスケッチしたりしたが、その脚はじっと見ることができず、急いで布団を元に戻した。


一ヶ月半ほど前に、「たぶん年内でしょう」と医師に言われてから、母は前より頻繁に父を見舞っている。
「うちにいるとお父さんのことばかり考えちゃって、いてもたってもいられなくなって、タクシー呼んで来ちゃうのよね」と母は言った。
実家の近くには母の弟が住んでおり、父を見舞う時はいつでも車で送ってあげると言われているのに、あまり頼もうとしない。
「だって、マコトに頼むと時間が気になるもの。あの人もいろいろ忙しいだろうし。一人ならいくらでも長居できるでしょ。それで好きなだけお父さんにお話できるでしょ。昔、こんなことあったわねぇとか。歌も歌ってあげたりして。聞いてるかどうかわからないけどね。2時間近くそうしていたことあるわよ。だから思い立った時に一人で来るのが一番いい」。
寝ている父に上からほとんど抱きつくような恰好で、父の頬を両手で挟み、頭に頭をくっつけんばかりにして話しかけている老母の姿は、私が知っている母とは少々違うものだった。なんだか見ているのが躊躇われる感じで、私は部屋の窓から外を眺めているふりをした。


この間、母は体調を崩して2日ほど寝込んでいた。翌日は大事をとって外出はしなかったそうだが、ボーッとしているのも間が持たないので、家の離れに放置して邪魔になっていた古い桐箪笥をゴミに出せるように、一人で解体して木っ端にしたそうだ。
「お父さんっ、今度行く時まで死なないでよっ、勝手に死んだら怒るからねっ、いいわねって大声で言いながら、トンカチでタンス壊した」。
ひえぇ。76歳のおばあさんが白髪振り乱してそんな。想像するだに鬼気迫る光景だ。「力仕事だったら、言ってくれたらやったのに」と言うと、「いいのよ、体動かさないと鈍るし。なんかスカッとしたわよ」。この人は元気で長生きするのではないだろうかと思った。


母は二十歳の時、高校一年の担任だった13歳も年上の父から熱烈なプロポーズを受けて(という話である)結婚し、55年の間、厳格な夫にひたすら従い苦労してきた。子どもの目にも、母があまりに気の毒だと思ったことは何度もあった。しかし今では、二言目には惚気話である。
「いろいろあったけど、悪いことはもうみんな忘れた。いいことしか覚えてない」。一年半前、ホームに入居直後に父が「家に帰りたい」とゴネて私たちを困らせた時、キレて「お父さんが帰ってくるなら私は家を出ます!」と言い放った時とは別人のようだ。
関係性が逆転し、衰えていく夫の姿を見ているうちに、いい思い出だけが残るものなのだろうか。ボケた夫の自宅(老々)介護という苦行から解き放たれて余裕ができたことで、相手のすべてを許し受け入れるという心境になれたのだろうか。
いやそれよりも、結婚生活は母の人生のほぼ4分の3を占めているわけだから、母にとっては「夫を愛する=これまでの自分の人生を概ね肯定する」ということになるのか。
グダグダと頭の中で考えていた私に母は冷静な声で、「愛情って言葉で言えば、愛はないけど情はあるわね」と言った。


余談。
「今日のお母さん、そんなふうだったわ」と家に帰って夫に報告すると、彼は「幸せだなぁ!おまえのオヤジさんは。最後の最後までそんなに思われてさぁ。羨ましいわ、ほんと」と言った。「俺が死ぬ時はそこまでしてもらえんだろな」(チラッ)。
‥‥‥さあ。それはその時になってみないと。というか、「そこまで」も何も第一自分たちが将来父のように介護施設に入居できるとは思えない上に、この先何がどうなるのかわからないのに、自分が妻より先に死ぬというストーリーだけはできているのは何故なんだ。