『やっぱ月帰るわ、私。』 - インベカヲリ★写真集 -

若い女性が自分の写真を撮られたい時とは、どんな時だろうか。どんなふうに撮ってほしいと思うのだろうか。
自分が一番「輝いている」と思う時? 今の若さを記録しておきたいと思った時? 普段の自分より3割増くらいは美人に撮られたい? 女優のように撮られたい? まるでファッション雑誌の読者モデルのように? それとも男性の視線を集めるグラビアモデルのように? いやそんなんじゃなくて、一見普通だけどさり気なくオシャレで透明感のある感じに?
‥‥‥私の想像力は貧困だ。そのことを、この写真集は教えてくれる。


やっは?月帰るわ、私。

やっは?月帰るわ、私。


東京及びその近郊に住む若い女性たちのポートレートである。ヌードも下着姿も仕事着も私服も制服も被り物もある。分類できない”装い”もある。シチュエーションもいろいろだ。路上、森、川、海岸、アパートの部屋、どこかの会議室、廃墟とおぼしき場所、ホテル、住宅街、繁華街、公園、国会議事堂前‥‥。そこで女性たちはさまざまなポーズを取っている。 
これらは、写真家インベカヲリ★がモデルになりたい女性を募り、応募してきた彼女たちと一人一人会って個々のプライベートな話を聞かせてもらい、そこからインスピレーションを得てイメージをふくらませ、シチュエーションや服装やポーズを提案しつつ決定して撮ったものだという。
だからここにあるのは、それぞれの女性の日常の顔からは少しずれていると言える。けれども、完全なフェイクとも言えない。どの写真も、フェイクと言うにはなまなましくドキュメンタリな匂いが濃厚に漂っている。


写っている女性たちは、10代に見えそうな女の子もいるが20代が中心のようだ。彼女たちの視線には、強さと弱さがせめぎあっている。挑むような視線、放心したような眼差し、凝視、微笑。DVやリストカットの痕跡が見える写真もある。
そこから、現代の日本で生きる若い女性の、苦しみや怒りや憂鬱やナルシシズムといったものが、当然匂ってくる。写真家が一人一人の女性から聞いた生活史の個別性によって、それは一枚一枚少しずつ異なるものになっている。
個々の女性の生活史はプライバシーに関わることなので、どこにも具体的な情報は提示されていない。ただ見る者はそのデリケートさや複雑さや危うさを、写真の表面から感じ取るのみである。そうした「かさぶたが剥がれそうなヒリヒリしたもの」を感じさせつつ、しかし作品の佇まいは実に堂々としている。


その要因の一つは色彩にある。どこか古典絵画の油絵を想起させる、どっしりした力強さをもった色味。特に、僅かに蒼みがかった黒の重さが目を引く。重低音が響いているようだ。私は写真にはまったく詳しくないが、ファッション雑誌などでよく見る、流行のフワッとした曖昧な空気感とは真逆の表現に思える。
黒の中から浮かび上がる赤、白、青といった色には、どれも少しずつ湿度が感じられる。色彩の重みと湿度は、それぞれ個別の背景を抱える被写体の女性の、全身から滲み出る言語化しえない感情とシンクロしつつ、それを圧倒的に肯定するものである。
構図はケレン味がなく、ほぼ中央に被写体を捉えている。手ぶれやフォーカスを利用した”雰囲気作り”の一切ないところに、清々しさを覚える。


ありとあらゆる性的視線と消費に晒され、また時に自らをそこに晒す現代の東京の若い女性を、エキセントリックになまなましく撮り、それを「リアル」として提示することは、たぶんそんなに難しくない(と思う)。それは紋切り型である。
あるいは人生の話を聞き取り写真を撮ることを通して個々の女性の苦しみに「寄り添う」とか、「エンパワメント」するとか、現代の若い女性の抑圧的位相を「告発する」とかいった方向も、一応は考えられることだ。だがそれも、表現においては紋切り型である。
それらのことを視野に収めつつも、そこから少しずれていこうという静かできっぱりした意志が、写真から感じられる。ある人々は「ジェンダーの痛み*1が伝わってくる」というような凡庸な感想を述べたくなるだろう。でもインベカヲリ★の写真はそこには着地しないのである。


それは多くの作品に、「このシチュエーションでなんでこのポーズ?」と思わず笑ってしまうような、またはあとでジワジワくるような、”変”な要素が見え隠れしていることに起因する。実際私は何枚かの写真で思わず吹き出し、ニヤニヤした。
と言ってもその設定に、受けを狙ってわざわざキメた感じは希薄で、「この人の話を聞いててこんなの思いついたのでちょっとやってみた」とでもいうような、極めて無造作に投げ出されている感がある。そしてモデルの女性も、「あーこういうのも私だったりする」といったふうに、あっけらかんと"変"なポーズをして撮られている。
いい意味でのやり過ぎない中途半端さが、煮詰まりそうな空気に風穴を開けている。そこに漂う脱臼感覚とユーモアに、魅了された。


ユーモアと言えば、『やっぱ月帰るわ、私。』という”唐突”なタイトル。
写真家のテキストによると、モデルの女性たちが「自分の根源にある心象風景を晒し、世間のうねりから抜け出していくさまを「竹取物語」に重ねて表現した」とある。決まりきった世間の約束事や男女のあれこれに囚われたり合わせたりして不満を溜め込むことをやめ、別世界、つまり男の視線を内面化しなくて済む世界に行く、ということだ。女が女を撮っていることで、このタイトルは一層のリアリティを増す。
さらに「竹取物語」にあるような、今生の別れの辛さや涙がこのセリフには微塵もない。「やっぱ地元帰るわ」どころか「やっぱ会社休むわ」くらいのノリである。またアニメ『かぐや姫の物語』の中の、かぐや姫の捨丸への未練(最後まで残るロマンチックラブへの憧れ、異性愛中心主義)もない。*2
変な喩えだが、子どもが襖にクレパスで殴り描きした絵を見つけた時のようなはっとする感じが、このタイトルと作品の双方に通低している。
邪推をすれば、lunatic(ラテン語で月を意味するlunaに由来)が「狂気」を表すことから、世間という枠組みの中で「正気」を無理矢理保たせられている女性が自分を解放することで「狂気」に至る、つまり人からは”変”に見える姿こそ真実であるというニュアンスも取れる。


ドキュメンタリー・タッチとフェイク感、重みのある色彩と少し抜けた設定、マイナスに振れそうな感情とふと漏れ出るユーモア。相反する要素の隙間を縫うようにして、表現が成立している。写真家が女性たちの人生の物語を聞きイメージを作るという、現実を再構成する方法論によって、それらの隙間は初めて可視化されている。
隙間に名前がつけられることはない。隙間がラベリングされて整理されることはない。でもそれがどういう場所だったか私は知っている、よく知っている、とページを繰りながら何度も思った。



WEBスナイパーの企画で、先日、写真家インベカヲリ★さんと対談させて頂きました。
最近の写真には疎い私、女の子写真ブームのあった90年代以降に出てきた日本の女性の写真家というと、長島有里枝蜷川実花HIROMIX川内倫子くらいしかわかりません。インベカヲリ★さんも、今回の企画で初めて知りました。
80年生まれのインベさんは上記の人々の次の世代ということになりますが、もう10年のキャリアを持っており海外での展覧会もいくつかされています。『やっぱ月帰るわ、私。』は、初めての写真集だそうです。
対談は、今月末か来月始めにWEBスナイパーに掲載される予定です。出ましたらまたお知らせします。


▶参考
『やっぱ月帰るわ、私。』/ Time to go back…to the moon. - AKAAKA‥‥発売元の書籍紹介ページ。2種類の表紙で出ています。
インベカヲリ★‥‥インベさんのHP。写真が多数掲載されています。
その女、凶暴につき インベカヲリ★写真集「やっぱ月帰るわ、私。」赤々舎|(H)imaginism‥‥レビュー。個展会場の写真が掲載されています。

*1:ジェンダーの痛み」とは上野千鶴子日本画家の松井冬子との対談で、彼女の作品を指して言った言葉である。

*2:ちなみにジブリアニメの公開に合わせてタイトルを決めたのではなく、それよりずっと前に決まっており、まったくの偶然で驚いたとのこと。