路地の奥、記憶の底、そして「青春の残滓」

10代の終わりから20代前半にかけての5年間、東京に住んでいた。5年のうち4年半くらいが池袋。パルコがDCブランド展開で賑い、西武美術館が刺激的な展覧会を連発し、改装前の文芸坐があって、サンシャイン60が出来た頃。その昔、青江三奈の『池袋の夜』で歌われたイメージが払拭されようとしている時期だった。
名古屋に帰ってきてからもう30年余りになる。最初のうちは知人友人のも含めて展覧会を観に(たまに自分がやりに)、毎月のように上京していたが今では年に数回行くくらいになった。池袋にはほとんど用事がなく、自分の住んでいたあたりになると32年間まったく足を向けていない。
ある時ふと、昔住んでいた街に行ってみたくなった。グーグルマップは見ないで、実際に歩きながら変貌を確かめたいと思った。


池袋東口を出て明治通り沿いに歩いていき、商店街の道を折れる。平屋の個人商店や民家が並び、ところどころ緑があったこの通り沿いも、ほぼ全ての建築物がビルに建て替わっていた。昔の喫茶店もパン屋もくだもの屋もない。その代わりに、こじゃれたカフェやビストロが目につく。
30年も経てば、何もかも変わって当たり前だ。そう思いながら、路地の入り口に来た。私のアパートがあったのは、この路地の少し奥まったところ。両側の建物がまったく変わっていたので、「この路地だよな」と何度も確かめた。


アパートは、大家さんの敷地内にある木造モルタル二階建て。下宿とアパートの中間のような住まいだ。門を入るとすぐに木造のこじんまりした大家さんの二階家と小さな庭があり、庭を抜けると大家さんの家に接してその建物があった。
私が入居していた一階も二階も三部屋ずつ。四畳半に半間の流しとコンロ台、トイレは共同でお風呂はなし。もう今時、そんな部屋はほとんど消滅しているだろう。
大家さんは老夫婦だった。おじいさんの方は、庭木を剪定するのが趣味の人。狭い庭の周囲に所狭しと鉢植えも並んでいた。おばあさんは、頭のてっぺんにお団子を結ったシャキシャキした人で、たまに貰い物のお菓子をくれた。
その当時で、大家さんの家も木造アパートも、新しいとは言えなかった。今はおそらく隣近所の建物と同様、取り壊されて新しい民家かアパートか何かに変わっているはずである。


そう思いながら人気のない路地を歩いていった私は、思わず息を呑んで足を止めた。周囲が一軒残らず新しく建て変わっている中で、私の住んでいたところだけが昔のままに残っているではないか。鳥肌が立った。
横に松の植わっていた狭い門は間口を広げられ、庭は駐車場になっていた。だが大家さんの古びた家は、二階部分を若干建て増ししつつ、昔の面影をほとんど残していた。大家さん夫妻が他界された後、おそらく子ども夫婦が住んでいるのだろう。
その奥に、私の住んでいたアパートがそのまま建っていた。中はだいぶ前から倉庫になっているらしく、埃で白っぽく汚れた窓ガラス越しに、ダンボール箱や植木鉢などが積み上がっているのが見えた。人の気配はなく、半分打ち捨てられているといった風情だ。どう見ても周囲から浮いている。
私は門から少し離れたところに立ち、自分が18歳半から23歳初めまでを過ごした場所と対面していた。他人の敷地を凝視していたら怪しい人と思われるに違いないが、あたかもその場所が、私が思い出して見に来るのを30余年も待っていたかのような感覚に囚われて、しばらく動けなかった。


唐突に、筒井康隆のホラー短編『鍵』を思い出した。
売れっ子ルポライターの主人公はある日、新婚当時に住みその後は荷物置き場として借りっ放しになっていた家の鍵を見つける。そこに行ってみると、机の引き出しから今度は、以前の仕事場の鍵を見つける。そこに行くと、放置してあった洋服箪笥のズボンのポケットから、前にいた会社のロッカーの鍵を見つける。会社のロッカーを開けてみると、高校時代から穿いていたズボンのポケットから高校のロッカーの鍵を見つける。
芋蔓式に鍵に導かれて主人公は最後に、自分が若い頃に数ヶ月だけ住み、ずっと忘れていた古い下宿に辿り着く。おぞましい記憶がまざまざと蘇ってくる中で、彼は戸を開けようとする自分を止めることができず‥‥‥という話。
人が、ふとしたことから無意識に抑圧していたトラウマ的体験を召還してしまうさまを、わかりやすく描いている。
冒頭は次のように始まっている。

 青春の残滓というやつはどこかがほころびるとその破れ目から次から次へといくらでも湧いて出てくる。特に仕事に追われて我が青春を省みる暇がなかったりすると、いったんひっかかりができて気になりはじめ無理やり引きずり出そうとした時などひどいもので、とめどなくあふれ出てくる。それはもう、目をそむけようにもそむけようのないほど大量にだばだば出てくるものだから、まともに受けとめようとすれば発狂するしかない。それぐらいひどいものだ。


あの部屋で私は初めてたった一人の夕食というものを味わい、初めて一人でオールナイト上映に出かけ、初めてタバコというものを吸い、初めて買ったアイシャドーを試し、初めて酔っぱらって服のままで眠り、初めて男の子を部屋に入れたがセックスには至らず、初めて徹夜して原稿(大学新聞)を書き、そして隣の部屋には同世代の女の子がいて、それから、それから‥‥。
やめとこう。自分で無理して鍵をこじあける必要もない。意識的に思い出そうとしたことは、いかにも思い出らしい思い出ばかりであって、そうじゃないものはどうせ忘れた頃に何かのきっかけで「大量にだばだば出てくる」のだから。


おそらく誰でも、若い頃に何年か一人で過ごした部屋があるのではないだろうか。自宅の二階の自室、上京して借りたアパート、マンション、借家。自分一人だけの空間は、妄想と夢と野心でぱんぱんにはち切れんばかりになる。一方で、次第に澱も溜っていく。
閉ざされた部屋に溜った「青春の残滓」は、自然に消滅することはない。人知れず繁殖し、発酵し、いい具合に醸成されることもなく、時折思いがけない時に顔を現して懐かしい腐臭を放つのだ。


鍵―自選短編集 (角川ホラー文庫)

鍵―自選短編集 (角川ホラー文庫)