犬との関係

義両親宅には11歳になるチワワがいる。この犬は私にもよく慣れていて、行くと興奮して飛びついてきて離れない。そんな時、義母は「ほらハッピー、おねえちゃんが困ってるよ」などと言う。「今日はおにいちゃんとおねえちゃんが来てくれて、嬉しいねぇ」。夫は「おにいちゃん」だ。
おそらく義母は、ハッピーの「おかあちゃん」のつもりでいる。だから、自分の息子とその妻は(犬からすると)「おにいちゃん」と「おねえちゃん」になると。何が「だから」なのかよくわからないが、五十を過ぎて「おねえちゃん」と呼ばれるのは、いくら犬との想像的関係を介してとは言え妙な気分だ。


一週間前に、柴の子犬を家に迎えた。二ヶ月の雄。以前飼っていた犬のコロと猫のタマから一字ずつ取って、タロと名付けた。
一人暮らしの母を慰めようと、昨日、タロを車に乗せて実家に行った。母はもともと犬や猫が苦手だが、ケージから恐る恐る顔を出した子犬を見て、「まーあ、なんて可愛いの!」と相好を崩した。
ひとしきり子犬を触りながら母は、「タロちゃん、いいお母さんとお父さんができてよかったねぇ」と話しかけた。母から見ると、私は犬の「お母さん」になるらしい。飼い主をペットの(育ての)「親」と見るのは普通のことかもしれないが、「お母さん」は自分の感覚にはあまりピンと来ない。
だって「お母さん」は、あまりに近過ぎる。”他人”じゃなさ過ぎる。相手はどこまで行っても犬だ。私が育ててはいるが、私の子どもではないのだ。


これまで犬を17年、猫を5年弱飼ったが、「家族」という言い方も実はあまりしっくりしない。コロもタマも限りなく親密で、同時に限りなく遠いところにいる感じだった。
とりあえず私は犬に対して「おばちゃん」でいる。「タロ、おばちゃんと遊ぼう」。「おばちゃん」は、他人である。お母さんほどべったりしない、淡々とした関係をイメージしている。淡々として親密な。


などと考えていたら、『サイボーグ・フェミニズム』のダナ・ハラウェイが、こんな本を書いていたのを知った。本を紹介しているブログ記事毎日新聞書評『伴侶種宣言』ダナ・ハラウェイ著・掲載 - KASOKEN satelliteより抜粋。

「重要な他者」に対しては、思い入れのせいか「他者性」を忘れてしまう。「父権的」に相手を支配することもない。「母性」でもって相手を呑(の)み込むのでもない。他者性という視点があれば、適切な愛の形を結ぶことができるかもしれない。将来来たるべきかもしれない麗しい愛の姿を垣間見た。

 ハラウェイは猿やサイボーグや犬を使って、<重要な他者性>との理想的な愛のかたちを探っていくのです。

なんか個人的にとてもタイムリーです。読んでみようかしら。

伴侶種宣言: 犬と人の「重要な他者性」

伴侶種宣言: 犬と人の「重要な他者性」


この春から仕事で北陸方面に住む夫と別れて暮らすので、タロが唯一の同居人になる。私の新しい「伴侶」になるかもしれない。