女が自分を騙すとき‥‥『処女連祷』を読んで

今年は有吉佐和子没後30年ということで、集英社文庫に収録の著作が次々と復刊されるという。著名な作家にも関わらず私の既読は『悪女について』1冊だけで、映画で『紀ノ川』、テレビドラマで『華岡青洲の妻』を昔観たことがあるくらいだが、最近『処女連祷』を知人から薦められて読んでとても面白かったので、その感想を。

処女連祷 (集英社文庫)

処女連祷 (集英社文庫)


女子大を卒業してそれぞれの進路へと巣立ってから30代に入るまでの女性たちの生活と、恋愛や結婚を巡る変遷。有吉佐和子が20代半ば過ぎで書いた、1957(昭和32)年発表の作品である。
書評家・藤田香織の解説に「驚くのは発表から五十七年という歳月が過ぎて尚、まったく色褪せていないこと。それどころか現代の女子小説で繰返し綴られる仕事、友情、結婚についての悩みや迷いが、鮮やかに描かれているのです」とある通り、主人公たちのデリケートにして複雑な心理的葛藤は、「処女(「乙女」と表現される)」であることがかなり重要な問題と認識されているという時代的要素を除けば、今の20代から30代の女性にもストレートに響くところがあるだろう。
何より興味深い点は、恋愛や結婚問題における他者と自己の比較、理想と現実の比較が、女をいかに迷わせモンスター化するかということが、実にスリリングに描かれているところだ。


また、『悪女について』ではヒロインを巡るさまざまな人の語りの”ドーナツ”が、その中心の「穴」のかたち=ヒロイン像を徐々に浮かび上がらせるといったミステリー的な趣向が凝らされていたが、『処女連祷』においてはその空虚(まさに何も無いという意味で空虚!)な穴の存在自体が、終盤でやっと明かされる。わりと早い段階で「なんか変だな」と気付く人もいるかもしれない。
※以下ネタばれあり。


女子大の卒業を控えた七人の仲良しグループ。旧華族出身で留学中の婚約者のいるお嬢様の祐子、大柄で真面目な勉強家の朋枝、ものをはっきり言う行動派のトモ子、他の人には内緒で大学生とつきあっている文代、小柄で恋愛に疎い薫、容姿端麗の珠美と麗子。物語は主に文代の視点から描かれる。
戦後、恋愛結婚がどんどん増えてお見合い結婚の数に迫ろうという時代。祐子がしばしば開陳する、前途多難そうだがゴールは”理想の結婚”に思えるエリート青年との熱烈な恋愛物語に、あとの六人の心は微妙に揺れる。
いかにもお嬢様風のもって回ったもの言いにたまに苛つきながらも、彼女たちは祐子の話に耳を傾けずにはいられない。祐子だけが自分たちの一歩先を行っているという認識が、彼女たちの中に僅かな引け目を作り出してもいる。
卒業後、朋枝が意外にもあっさりとお見合い結婚したのも、祐子に相談して背中を押されたからだ。さらに祐子はカジテツで家に引きこもっている薫に、自分の友人の京大出の青年を結婚相手として紹介することを約束する。


時は経って30歳を目前にし(当時としては「適齢期」を過ぎている)、出版社勤務のトモ子は「独身でいくことに決めた」と宣言する。一方、英語教師の文代は男とつきあっては別れ、結婚にも独身にも確信が持てないでいる。不倫に嵌ってしまった体験を語る珠美と、恋愛に対してクールな距離を取る麗子。そして折に触れては、例の婚約者とのあれこれを長々しい手紙で知らせてくる祐子。
ある時、ついに結婚が決まったと言う祐子から悪くない縁談話を持ちかけられ、文代は再び心が波立つ。だがその後祐子からは何の音沙汰もなく、自分から催促することもできずに悶々としているところに、突然薫が訪ねてくる。祐子の口約束が果たされるのを待っていた薫は、この4年の間に酷い目に遭わされていた。文代たちはやがて、祐子のこれまでの発言と振る舞いのすべてが、嘘で塗り固められていたことを知る。


「ああ、こういう女っているわ」「こういう悩み、私もある」という共感を女性読者に喚起しつつ、積み重なった何気ない些事が寄り集まって次第に一つの謎へと形成され、息詰まるような終幕へと傾れ込んでいくプロセスはサスペンスフルだ。その中で祐子という女性の怪物的な心理が、ぞっとするほど残酷に、且つ一抹の悲哀をもって浮かび上がってくる。
「人も羨むエリート御曹司との熱烈恋愛から婚約へ」という物語を周囲に完全に信じさせる一方で、「婚約者がいながら男友達が放っておかない私」を演出し、お見合いの相手を紹介するという”釣り”で独身の友人を引きつけておいて、その自尊心を延々と弄ぶ。
10年以上に渡って、常に自分の姿を同級生たちの羨望の眼差しの先に置き続けるべく、虚言を重ねてきた女、祐子。彼女の自分語りはまさに”ドーナツ”であり中心には何も無かったけれども、その詐術がすっかり功を奏したのは、「恋愛」や「結婚」というテーマに文代たちが多かれ少なかれ囚われていたからに他ならない。


もちろん、もっともその囚われが深かったのは祐子自身である。それゆえ彼女は、トモ子に嘘を暴き立てられても頑として認めず、最終的には「結婚目前で婚約者に死なれてしまった可哀想な私」をあざとく演じ切って、皆を呆れさせる。
ここにきて、「嘘をついている」という自覚が祐子にあったのかどうかも疑わしくなる。長い間、「こんな自分でありたい」「人からこんなふうに見られ、憧れられたい」と強く思い、その通りに振る舞うことによって、嘘と現実の区別がつかなくなった、むしろファンタジーの中に自分のアイデンティティを置いてしまったがためにその外に出られなくなった、というべきかもしれない。


女は一般に、加齢によって男よりも急速に恋愛や結婚から遠ざけられ、いわゆる「対象」から外されていく。その現実の前に、一切のファンタジーなくして生きることは困難だ。「職業婦人」となっても仕事は所詮結婚までの”腰掛け”で、「家庭をもつこと」が女性の幸せであると信じられている時代なら、尚更だ。
例外は文代たちの恩師であるミス・ライエルのように、やりがいのある仕事に恵まれ多くの信奉者に囲まれ、老いても尚意気盛んであるような女性。その彼女でさえ、「この道を人にすすめようとは思いません」と言う。
文代は、妄想を肥大させたまま戻ってこれなくなった祐子に、近所に住む孤独な老嬢、五十嵐みつの浮き世離れした惨めな姿を重ね合わせる。文代から見れば、二人は一種のモンスターである。だが自分の歩む道もどこかで二人のいる場所に通じていることを、彼女は自覚せざるをえない。


惨めな現実が待っているかもしれないという恐怖から、束の間の優越への渇望が生じる。それはいつしか壮大なファンタジーに育て上げられて他人を騙し、自分を騙し、やがて騙していることを忘れ、それがその人の中で唯一の「真実」になっていく。
祐子の嘘は、客観的には綻びを見せ暴かれた。しかし祐子の中では物語はきれいに円環を閉じ、「真実」として完結する。
果たして希望を見出せない現実を無理矢理直視して、幸せになれるのだろうか?という問いがあとに残る。現実を目の前につきつけ膨らみ切った妄想を風船のようにパチンと割ってやったとして、その人は果たして幸せなのか? ファンタジーが消えた時、現実と向き合って私は幸せになれるのか?‥‥‥ 
文代たちが、散々騙され振り回された報復として決定的な一撃を祐子に下すのを最後の最後で躊躇うのも、自分の胸に去来するその問いの前に佇むからだ。


彼女たちの迷いを示したところですっぱり終わることによって、57年前の日本を舞台にした小説は今でも一定のリアリティを保ち続けているように思われる。それは57年前も現代も、恋愛や結婚を巡る女性たちの基本的な煩悩がさして変わっていないことを示している。
文代たちが直面していたのも、私たちが今だに直面し続けているのも同じく、男女の「愛」をファンタジーに閉じ込めずに生きることは可能か?という、答えの出ない問いなのだ。