老人と犬

2月末以来、事故に遭った飼い犬の件でしばしば動物病院に通っていた。かなり遠くからペットを連れてくる人もいるらしい、わりと大きな病院。土日だと、診察室に呼ばれるまでに1時間以上かかるくらい混んでいる。
私のように子犬を連れている人は珍しく、だいたいが成犬や成猫である。ワクチンや去勢手術で来た犬猫もいるだろうが、毛並みに艶のない見るからに歳をとったペットも少なくない。
そして、来ている飼い主たちがまた、みんな歳をとっている。平日は仕事に行っている人が多いから、ペットの世話も家に残った暇な老人がするというわけなのだろうが、土日でも7割くらいが中高年だ。


シーズーを抱いたおばあさん、ミニチュアプードルを抱いたおじいさん、猫のキャリーバッグを抱えた中年の女性、ビーグルを連れた老夫婦‥‥。動物病院でありながらどこか人間の病院のような、動物も具合が悪いけど人間の方も病院通ってるんでしょうね、という雰囲気の待合室。
こう書くと陰気だと思われるかもしれないが、年老いた者同士、静かに寄りそって生きているという感じが、どの飼い主とペットの間にも漂っていて、見ていて不思議に心が和む。むしろ、犬や猫と一緒にいて一番似合うのが、老人ではないかと思えてくる。
子育てや仕事など現役から引退した人が、犬猫の世話を通して生き甲斐を見出したり、心の拠り所にすることは多い。自分だけを頼りとしてくれる者の存在は、毎日の生活にささやかな張りをもたらしてくれるものだ。それに、老人にとって愛情込めて育てたペットは、成人した子どものように「親を無視する」ということも、孫のように「小遣いだけせびりに来る」ということもない、唯一気のおけない存在となっている場合もあるのではないかと思う。


老人と犬」で思い出すのは、『グラン・トリノ』クリント・イーストウッドが演じた元自動車整備工のウォルト・コワルスキーと飼い犬だ。
子どもとは離れて暮らし、妻に死なれて一人になったウォルトは、毎日ポーチに置いたカウチに座って朝は新聞を読み、夕方はそこで通りを眺めながら缶ビールをあける。その傍らにいつも寄り添っている愛犬のゴールデン・レトリバー。老人は時々犬に話しかける。人間も犬も古びているが、二者は他人にはわからない信頼で結ばれているのだな、という親密感がよく伝わってくる。
時々、喉の奥で「ガルルル‥‥」と犬のような唸り声を上げる、不機嫌なウォルト。イーストウッドの、人間嫌いが嵩じて犬に近づいているかのような偏屈な老人の演技がすばらしかった。この犬は物語で特別重要な役割を果たすわけではないが、飼い主の役柄を表すのに欠かせない「小道具」であり、ラストでもちゃんと登場する。元の飼い主を失っても幸せに暮らしているのがわかって安心できる。


うちの近所にウォルトのような老人はいないが、尾張地方のこの町は犬を飼っている人が多いのか、夕方、犬の散歩をしている人を近所で頻繁に見かける。やはりほとんど、中高年の人がリードを握っている。
私が犬の散歩に出るのは夜、車の通りも人通りも少なくなった頃だ。昨夜、街灯がぽつりぽつりと灯っている道を歩いていると、口笛が聞こえてきた。犬を散歩させているどこかのおじいさんだった。犬を呼ぶ口笛ではなく、有名な曲をとても上手に吹いていた。その人が角を曲がっていった後も、夜の静寂に口笛はしばらく響いていた。
何て曲だっけ‥‥とそのメロディをハミングして、「あ、『屋根の上のバイオリン弾き』だった」と思い出した。結婚式の場面で、若い新郎新婦を祝福して合唱される名曲だ。


Sunrise, sunset

Sunrise, sunset

Swiftly fly the years

One season following another

Laden with happiness and tears


この繰返し部分の歌詞は、一緒に歳を重ねてきた老人と犬にもぴったりだと思った。