義父とトンカツ屋に行く

先週、薬の飲み過ぎで体調が悪化した義母が入院した。先日2回目の見舞いに行くとだいぶん元気になっていて、一安心。
病院の帰り、義父が一緒に昼飯を食べようと言うので、前に家族で行ったことのあるトンカツ屋に入った。夫が単身赴任してから、義父、義母と三人で食事をしたことはあったが、義父と二人だけは初めてだ。ランチタイムは大変混雑する近所では人気の店だが、ラッキーにもすぐにお座敷に座れた。
普段口数の少ない義父は、楽しそうによく喋った。少年時代の話、昔の田舎の食べ物の話。私はもっぱら聞き役。昔の話にはわりと興味があるので、こういう役は嫌いじゃない。


食事が終わって店を出る時、義父と丁度同じ年格好の老人が入り口にいて、互いを認めると「や、これは」と挨拶をした。昔の知り合いか誰かなんだなと思いつつ軽く会釈すると、その人は少し戸惑い気味に「お、奥さんですか?」と言った。
なん‥‥‥だっ‥‥‥て‥‥‥。
急いで義父が「いやあの、息子の嫁です」と言い、「これは失礼」とその人は頭を下げ、私ももう一度会釈した。
軽くショックを受けながら、店を出た。


「いくら何でも奥さんはないよねぇ。87歳と55歳だよ?親子ほど離れてるのは見りゃわかるじゃんね」と後日、母に言うと、彼女は笑って「きっとその人、奥さんにしては若いと思ったけど「愛人ですか」とも聞けなかったんじゃないの? だって普通、お舅さんが息子のお嫁さんと二人だけで外食してるって、思いつかないわよ。あんまりないでしょ」と言った。
そんなもんかな。姑が入院してたり他界したら、そういうことだってあり得るが。あ、でもその場合は息子も一緒にいたりするものか。
もし義父が車椅子でそれを私が押していたら、親子あるいは舅と嫁と見る人はいるだろう。でも二人で食事していると、なかなかそうは見られないらしい。


「年老いた舅と息子の嫁」ですぐ思い浮かぶのは、『東京物語』(1953年)の笠智衆原節子だ。
息子を失っている父(舅)と、夫を失っている妻(嫁)。笠智衆原節子は「紀子三部作」のうち『晩春』と『麦秋』で親子を演じており、『東京物語』の舅・嫁も仮想的な「父と娘」である。むしろ血の繋がらない分だけそれは、抽象化され理想化された「父と娘」と言えるかもしれない。

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舅と嫁が傍目には「男女」であるところから、トンカツ屋で遇った件の老人の誤解も生じていたわけだが、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』では舅と嫁の倒錯的な関係が描かれている。
62年の映画では、足フェチのM老人を山村聰、彼を介護しつつ手玉に取る色っぽいS嫁の颯子(さつこ)を若尾文子が演じた。若尾文子ははまり役なのでともかく、山村聰はよく思い切ってオファーを引き受けたものだと、テレビドラマの真面目なお父さん役しか知らなかった私は、後でDVDを見て感心した(ちなみに『東京物語』で姑役の東山千栄子がやはり姑役で出ている)。
ここには、『東京物語』が描いていない舅嫁関係から男女関係へのあからさまな還元がある。舅と嫁の通常の権力関係は、性的な優位者(嫁)と劣位者(舅)へと逆転され、さらにそこにサディズムマゾヒズム、介護する者とされる者の関係性が被さってくる。

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もっとも『瘋癲老人日記』の場合、舅が資産家で、息子は浮気しており、颯子は元ダンサーだったので男あしらいに慣れた美人、という設定があって物語が成立している。
そして『東京物語』の紀子も、義父に「気を遣わんでいいから、いいところがあったらいつでも嫁に行ってくれ」と言われるくらいには若く、そしてやはり美人である。
双方のヒロインと自分の名前の漢字と読みが一部被っているので、書いていて一瞬微妙な気分になったが、どっちにしても彼女たちは若くて美人なのである。
私が参照すべきはむしろ有吉佐和子の『恍惚の人』かもしれないが、森繁久彌(舅)、高峰秀子(嫁)で映画化されたのは未見である。

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