「どちらが真の弱者か」をめぐる闘争

このあたりに始まる小田嶋隆氏の「失言」問題が、まだ尾を引いているようだ。ご当人が自己弁護のつもりでブログに過去のテキストを発表したが、それが自身が否定している「バックラッシュ」や「ミソジニー」をそのまま体現しているとして、また批判を呼んでいるという状況。

ohnosakiko [フェミニズム][内容とあまり関係ない] 被差別者から差別者への、弱者から強者への抗議が「ヒステリー」的でなかったことなんてほとんどないと思う‥‥(今回は小田嶋氏がヒステリー起こしたように見えたけど)/ヒスは時々起こすべき

http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20140515#bookmark-195190122


この自ブコメの中で「ヒステリー」という言葉に「」をつけたのは、小田嶋氏が公開した過去のテキストで(フェミニズムの記述する)「女性史」を指して使っていたことを前提としている。普通は強い揶揄の意味が込められるので、自分の怒りをヒステリーだと言われたら大抵の人は腹を立てる。つまり相手をムカつかせるための言葉。
個人的にはこの言葉に必ずしもマイナスのイメージだけを持ってはいないので、上のブコメを書いた。以下、昔書いたブログ記事からヒステリーについての箇所を抜粋。

ヒステリーを起こすのは、一般に女性であると言われている。「ちょっとしたことでキレて感情剥き出しになりキーキー喚き散らす女」というイメージが、ヒステリーという言葉には貼り付いている。
ヒステリーはフロイトが研究した神経症の一種であるが、世間一般ではそうした精神分析の文脈から離れて、人の、特に女性のある特異な状態を指して揶揄するのに使われている。ヒステリーおばさん。ヒステリーばばあ。ヒステリーおじさん、ヒステリーじじいというふうには、あまり使わない。


ヒステリーと女性学を結びつけて研究している知人の知見では、ヒステリー者は相手を「主体」と看做すことで、自分はその欲望の対象=「客体」となるという。
つまり答えを持っているのも責任を負うべきも相手であり、自分は副次的な存在である。そこからヒステリー者の存在様式は「女」ということになる。「女」というのは、生物学的な女ではなく、受動態の別名としての「女」。だから男もヒステリーになることはある。
ヒステリー者はもちろん自分がそうした位置にあることに違和を感じ、常に相手に疑問を投げかける。答えを持っているであろう責任主体に、問わずにはいられないのがヒステリー者である。
その疑問が社会的、政治的になされる時、重要な問いとなることもある。すべての被差別者の差別者への問い、弱者の強者への問いはヒステリー的であり、革命もテロも一種のヒステリーだという言い方もできる。フェミニズムもそうだ。
石原慎太郎に対抗した立候補者達は、石原慎太郎を「主体」と看做し、その「責任」を糾すヒステリー的な問いを発していたのである。


ただ、ヒステリー者の問題は、疑問を投げかけるという立場を手放さなず、それによって相手との関係を維持し、関係の固定化に自ら加担してしまうところにあるという。問いただすという体裁をとりつつ、相手との関係性が変化することを拒み、むしろそこに依存していくのである。
そこで疑問は、疑問以上のものに発展することがない。ヒステリー者は「問う者」であることをアイデンティティとするので、相手との関係を失っても、また別の同様の関係を求めて彷徨う。


ヒステリーを起こす側と起こさせる側

「理はこちらにある」と確信して発せられる「何故?」には、人を捉える一定の力がある。それが強大で邪悪なものを敵に回した「弱者」の叫びなら尚更である。
こうした問いを発し続けずにはいられない者を、ヒステリー者と言う。「ヒステリー」と言われて怒ってはいけない。ヒステリー者の問いは真っ当であり、なされるべくしてなされるものである。
その場合、反駁しながらも相手は一応「上」に立っているわけだから、表向きは「答えをもっているはずの責任主体」と見なされている。「この理不尽のわけをおまえは知っているはずだろう。答える責任がそっちにはあるだろう。答えろ」と。
もちろん(裁判は別として)どのように答えられても納得はしない(だって答はこちらがもっている)から、永久に問い続けることになる。そして時に「マッチョ」から問い返される。「じゃあ何故もっと努力しなかったのか?」「何故手を伸ばして食べ物を掴もうとしないのか?」と。「何故?」メソッドによる「上」からの叱責だ。
それによって、ヒステリー者は増々ヒステリー化(問いを先鋭化)する。


問題は、こうした異議申し立て、糾弾の「何故?」を問い続けること、もっと言うと「問いを保持し、問う位置に留まり続けること」が、「マッチョ/ウィンプ」関係の補強になりかねないということだ。
「何故?」と糾弾する「ウィンプ」=ヒステリー者は、やがて自分のポジションにアイデンティティを見出し、問う行為それ自体を手放せなくなっていく。その態度が紛れもなく「ウィンプ」を「ウィンプ」、ヒステリー者をヒステリー者たらしめているのである。
ウィンプ」にとって、この上下関係こそが苦しみの根源であるのに、疑義を発し続けることによって、自ら関係の固定化に荷担してしまうというジレンマ。


「マッチョ」と「ウィンプ」の何故何故論


「毒舌コラムニスト」としての小田嶋隆氏の基本スタンスは、「硬直した抑圧的言説や旧態依然とした権威に対し、ユーモアとアイロニーを込めて切れ味鋭いツッコミを入れる」というものだ。マッチョ(強者)/ウィンプ(弱者)で言えば、小田嶋氏は対象に対して後者に自らを位置付けている。毒舌やジョークは後者から前者に向けて発せられるからこそ、「よくぞ言ってくれた!」という大向こうの喝采を得られるわけだから。私は氏の文章を日経ビジネスオンラインの『ア・ピース・オブ・警句』で知っているだけだが、この捉え方で概ね間違っていないと思う。
今回twitter上で批判されて以降の小田嶋氏の発言を辿っていくと、状況を「よってたかって過剰に責め立てられ、言論に圧力をかけられている図」と捉えているようであった。つまりここでも氏は、批判者側をマッチョ(強者)、自らをその圧力に困惑するウィンプ(弱者)と看做し、一連の発言を「強者に対する抵抗と疑義」として行っていたのではないか。
以上が「今回は小田嶋氏がヒステリー起こしたように見えた」理由。


氏がブログで公開中のかつて雑誌に寄稿したという文章も、もしかしたら大元のところで、CMや広告表現への「女性団体の抗議」をマッチョの強圧と受け止め、コラムニストの男性である自分はその圧力に押されていく弱者だという認識の上で書かれたのかもしれない。
フェミニズムは理解してるよ、でもやり方がね‥‥」などと男性が言う時、その「上から目線」をよく批判されるわけだが、それは実は強がりでそう装っているだけで、内心には怯えがあるのではないかと私は時々思う。多くの男性は、女性ほど異性への怯えを素直に(感情的に)表現できない。その分、深く潜在し、たまたま表に出てきた時は「蔑視」や「揶揄」になりやすい。
小田嶋氏はプロの書き手*1だから、怯えを言語化するにも一捻り加わるのだが、結果「フェミニスト寄りだなんて言っているけど、これ普通にアンチフェミじゃね?」と言われるものになってしまう(ちなみにかつての内田樹氏は二捻りくらいしていた。だがどんなに捻ってもアンチフェミやミソジニーの匂いは必ず嗅ぎ付けられる)。


言うまでもなく批判側は、小田嶋氏を典型的なマッチョと見ている。他でどんなリベラルなことを言っていてもやはりミソジニストでありバックラッシャーであると。ブログに公開されたあの文章を読めば、そう捉えられるのは避けられないことだろう。
小田嶋氏の発言への一連の批判は、強ければ強いほど上に書いたような意味での「ヒステリー」的なものになっていたと思う。フェミニズムであればそれはある意味必然である。つまりtwitter上に展開されその後も延焼し続けたのは、ヒステリー者とヒステリー者の応酬だった。少なくともそういう一面をもっていた。
互いに決して相容れない立場だと認識しつつ、スタンスは何故か同じになっている闘争。「どちらが強いか」があらゆる場面で競い合われた大昔のシンプルな闘争ではなく、「どちらが真の弱者か」「どちらが強者であることに無自覚か」をめぐる闘争。それは永遠に終わらない闘争。

*1:私から見ると「リベラル」とか、逆にその反対の「バックラッシュ」というよりは、80年代から90年代のサブカル(お笑いを含む)に近い人で、何でもネタにする内輪受け志向と素朴な「男の子」の本音主義がブレンドされている。