家族全員、一人暮らしになった

窓から首を出し、「じゃあね。また週末来るね」と努めて明るく言って車を出した。バックミラーに映った、チワワを抱いた泣きそうな顔の義父の姿。
先週の月曜日、義母が突然亡くなってから、バタバタのうちに9日が過ぎようとしている。


その日の明け方、いつも鼾をかいているのに静かなのを怪訝に思った義父が何度呼んでも揺すっても義母は起きず、頬に触ってみるとものすごく冷たかった。心肺停止の状態で病院に運ばれ、そのまま彼女は帰らぬ人となった。
朝食を作っている時に連絡を受け、信じられない思いで夫の実家に飛んでいくと、義母が可愛がっていたペットのチワワが飼い主を探して走り回っていた。義父はまだ病院から戻ってきておらず、電話で「警察が現場検証に来るので、いろんなものに触らんように」と言われた通り、チワワをケージに入れて立ったり座ったり落ち着かない気分でいると、やがて義父が警察官4名を伴って帰ってきた。
家で突然死んだ場合、不審死として調べが入る。発見時の詳しい状況から家の間取り、鍵の場所、私や夫の勤務先など細かいことをあれこれ聞かれ、通帳と印鑑と服用薬の写真まで撮って帰っていった。義父は疲れ切った顔をしていた。


昨夜からの義母の様子をポツリポツリと義父が話すのを聞きつつ、改めて病院へ。「大動脈解離」と死亡通知書にはあった。血管が裂けて溢れた血液が心臓を圧迫し死に至ったらしい。寝ている間のことでほとんど苦しむ暇もなかっただろう、それだけが不幸中の幸いかもしれない。
その二日前、「一人暮らしはだいぶ慣れた?(夫が4月から単身赴任しているので) また遊びに来てくださいね」との電話をもらったばかりだった。遺体は既に薄化粧を施され、霊安室に安置されていた。静かな死に顔を見たとたんに嗚咽が漏れて涙が止まらなくなった。
82歳だからそれなりの年齢ではあるが、先々月頃崩していた体調も完全復活して前より元気になり、秋には一緒に夫のいる新潟を訪ねようと話していた矢先だ。少なくともあと4、5年は元気でいるだろうとなんとなく思っていた。5歳年上の義父の方が早いだろうと。本当に、こういうことはわからないものである。
「ピンピンコロリがいい、早いとこコロリと行きたいといつも言っておった。その通りになったわ」と、義父がタオルで目を拭いながら言った。


学校に電話して休講の連絡と補講の日程の相談をし、小一時間ほど待っていると葬儀屋さんが来た。遺体を家に運ぶ。
それから通夜と告別式と法要について説明を受け、気がついたら正午もとっくに過ぎていて「お昼はどうましょう」と聞くと、義父が「御飯もあるし、ありあわせのおかずで食べよか」と言ったので、二人で冷蔵庫から常備菜などを出して食卓に並べた。
昨夜の夕食の残りか、アジのフライが一つあった。「あんた食べや」と言われて「じゃ遠慮なく」とパクついた。朝食を食べていないせいか、こういう時でもお腹が空く。「それ、カズコが昨日揚げたやつや」「そう。冷めててもおいしいね」。またじんわり涙が出てくる。
義父はまだ頭もしっかりしており(自分では、定年後に趣味でパソコンやってきたお陰だと言っている)、普段家事もそこそここなしている人なので、食器を洗い、昨夜ふやかしておいたという黒豆を火にかけ、麦茶を沸かし、ゴミをまとめ、玄関と庭先を掃き、黙々と立ち働いている。私が後を追いかけて手伝っているような有様。


3時頃、新潟から車を飛ばしてきた夫が到着した。義母の顔を少し見ただけでゆっくり悲しみに浸る暇もなく、すぐに葬儀の形式や段取りの相談に入る。義父は、息子に促されてもいろんな決め事の決断がなかなかできず、おろおろと「どうしたもんかの」と繰返す。夫は「オヤジが決めなきゃ進まんじゃないか」。そんな急かしても無理だって。もういい加減キャパ越えてるんだから。
しばらくするとお坊さんが来て枕経を上げ(チワワが吠えるので途中で抱いて外に出る)、そうこうするうちに親戚が3人、4人と駆けつけてきたので、お茶を出したり、スーパーにパック寿司やお茶菓子などを買いに走ったりし、とりあえず家に犬もいるし喪服も取りに行かねばということで、私は帰った。
その晩、夫は、義母の隣に布団を敷いて寝たそうだ。義父とどんな話をしたのかは知らない。朝起きたら、ケージに入れてあったはずのチワワが義母の枕元に来て、顔にかかったハンカチをペロペロ舐めていたという。


翌朝、自分ちの犬を病院に預け、喪服と宿泊の荷物をもって夫の実家に戻ってきてからは、いろいろ忙しくてよく覚えていない。通夜の間にふと、あれ?お父さんどこ?と思って探すと、大抵一人で控え室の奥に置かれた棺に手をかけ、義母の顔をじっと見つめていた。あまりに寂しげな背中に、かける言葉を失う。ある日突然妻に先立たれるとは、想像もしていなかっただろう。
ただ、社交的で世話好きな義母がご近所付き合いをきちんとやってくれていたお陰で、葬儀以降も毎日のように近所の人が義父の様子を見に来たり、おかずを差し入れて下さったりしている。私は今のところ週末しか義父宅に行けないので、気にかけて下さる人々が周囲にいるというのはとても有り難いことだ。


一昨日の日曜にまた行って、香典返しや法要の相談をし、細かい残務処理をした。義父は早くも義母の持ち物の整理を始めていた。「通販で何でか買うのが好きでな。毎週通販のカタログが送られて来とったが、昨日電話して断ったわ。この度、本人が長い旅に出ましたので言うてな」。
家には仏壇がないので、お店に見に行った。最近のモダンなものを薦められると、義父は「こういうのはカズコは好かんと思うわ」と言った。あれこれ見せてもらい、やっと予算内でサイズとイメージがぴったりのを発見する。「この縞黒檀はジャワ島産でして。非常に硬い銘木です」と係の人が口上を述べ出すと、「儂、ジャワでこの木切ったことあるよ」と義父が言い出し、係の人びっくり。戦争中、義父は陸軍の少年兵でインドネシア方面にいたことがある。


それにしても、あの元気だった義母がもうこの世にいないという事実が、私にはまだ実感として湧いてこない。
長年、和裁教室の先生をやっていた義母は、着付けの免許ももっており、あちこちに呼ばれていた。夫は一人息子で女の子がいないので、結婚した時喜んで私にずいぶん着物を作ってくれていたのだが、それを着て出かける機会もあまりなく、結局数えるほどしか着ていない。去年、「あんたにはもう派手になったから」ということで、私がほとんど着なかったのをごっそりと私の姪に下さった。
「そろそろちゃんと自分で着られるようになりたいので、また教えてね」と義母に言ってから、もう1年以上経つ。もっと若いうちから積極的に着て、着付けも完璧に教わっておけば良かった。二人で着物着て、義母の好きな御園座にお出かけもすれば良かった。何もかも、もう遅い。


夫が仕事で当分この地を離れることに決まってから、去年の夏と秋、義両親を温泉旅行に連れて行った。あの時義母はとても喜んで、「幸せだねぇ、今が一番幸せだわ」と言った。今度の新潟行きも楽しみにしていて、「それまで元気でおらなあかんって目標ができた」と嬉しそうだった。
そういう幸福な気持ちのままで天国に行ってくれたのでは‥‥‥と考えるのが、残された者にとって、せめてもの慰めである。


義母が亡くなり、私の家族関係は全員が一人暮らしになった。
独居老人の仲間入りをした義父、単身赴任の夫、犬と暮らす私。私の母も、今年2月に父が亡くなり一人暮らしだ。ついでに藤沢にいる妹も、娘は大学生で家を出てアパート住まい、翻訳業の旦那さんは近所の仕事場から時々帰ってくるだけなので、実質一人暮らしだ。こういう家族は今、多いのかもしれない。
夫は仕事の関係で、もしかしたら向こう10年こちらに帰ってこれないかもしれず、妹は持病があって体調が安定しない人なのでいざという時の頼みにはならない。つまり二人とも、親の介護には日常的に関われない。私しかいない。
あとは、87歳の義父と77歳の母に、病気やボケが同時に来ないことを祈るばかりである。