男への恨みと母性愛と「世界は私たちのもの」‥‥『マレフィセント』感想

ジブリの『思い出のマーニー』が今日から公開で、これから次々レビューが出て盛り上がろうとしているこのタイミングだが、あんまり盛り上がってない(気がする)『マレフィセント』の感想を。


三ヶ月前、「アナ雪」の感想記事の追記に書いたこと。

ついに悪女をヒロインにした7月に公開予定のディズニー実写映画『マレフィセント』(『眠りの森の美女』の魔女)が楽しみでならないのだが、これまでの流れから勝手に想像すると、悪女と聖女に女を振り分けるシステムへの怨嗟と糾弾の中で、「女の自分語り」がますます加速するものと思われる。

期待と不安半分で見た結果、当たらずとも遠からずといったところだった。
「悪女」マレフィセントと「聖女」オーロラ。二人の不幸な出会いは「システム」(男が出世だけを目指す社会)のせいだった。そこに取り込まれたかつての恋人ステファンに対するマレフィセントの「怨嗟」は、彼の娘オーロラに向かうが‥‥。という、『眠れる森の美女』に隠された”真実の物語”。語り部は、オーロラ(「女の自分語り」)。


物語を要約すると、愛を誓い合ったのに出世欲のために自分を手酷く裏切った男(ステファン王)を恨んで暗黒面に堕ちた女(マレフィセント)が、憎しみ余って男の娘(オーロラ)を亡き者にしようとしたにも拘らず、自分を誰とも知らずに慕う娘につい母性愛が目覚め、呪いをかけたことを悔やむが後の祭りで、やがて自分の予言が実現してしまい、娘に一目惚れした若い男(フィリップ王子)のキス=真実の愛で目覚めさせようにも効果はなく、懺悔の嵐の中で自分が娘にキスしたら、なんと!呪いが解けちゃったよ! あの子への私のこの気持ちこそが、真実の愛だったなんて!‥‥‥という内容。
「呪い」や「キス」の部分を除けばまるで女性週刊誌などに載っていそうな、「男女関係の縺れから子供を巻き込む事件に発展。しかし最後に女の子を救ったのは、男の元愛人の無償の愛だった‥‥!」みたい話だが、だいたい合ってると思う。Wikipediaに詳しいストーリーが載っているので知りたい方はそちらを。


『101匹わんちゃん大行進』のクルエラと共に、『眠れる森の美女』の魔女の悪女ぶりに子供の頃から惹かれてきた私としては、マレフィセントが案外簡単に情け深い人になっちゃって「母性」を発揮するのに、ちょっとムズムズした。
「悪女と言われているけどほんとはそうじゃないのよ、これにはわけがあって‥‥」という話であろうことは想像していたが、実生活で養子を何人も養育しているアンジェリーナ・ジョリーが演じる、他人の娘を愛し助けるマレフィセントって、そのまんま過ぎるじゃないですか。なにも、映画の中でまで「いい人」やらなくてもいいじゃないですか。
禍々しい高笑いがもっとたくさん見たかったし、できれば『ダークナイト』のジョーカーくらい突き抜けた悪の魅力を官能的に発散させてほしかった。せめて、人知れずオーロラを救った後に「フッ、私らしからぬことをしてしまったわ」と呟き姿を消すとか。オーロラの追想の中で永遠に謎めく、”フェアリーのゴッドマザー”マレフィセント。これはこれでカッコ良くないですか。
って、それだとオチがあまり明るくないし、ディズニーぽくないということにはなろうが、マレフィセントのスタイリッシュで悪魔的造形がアンジーにぴったり似合って素敵だっただけに、何かもったいないよなという気分が残った。


王子様が役に立たず、女同士の愛で呪いが解け‥‥というクライマックスは、言うまでもなく「アナ雪」とそっくりだ。ジェンダー規範に忠実だった過去の異性愛讃歌からの脱却を目指すディズニーが、今回も強調するシスターフッドだが、こっちのカップルは疑似母娘。
マレフィセントの、ステファン王への復讐心とオーロラへの強い庇護欲が後半の展開の軸となっているため、あたかも「女を動かすのは、男への恨みと母性愛」と言われているかのよう。正義だの大義だの掲げたがるのは男。女は個人的な感情で闘うと。そういう面はあるのかもしれないが、そこに落とすのかと鼻白む気持ちも半分。


この物語では、マレフィセントら妖精の国と人間の国が闘っているのだが、最後にステファン王を失った人間の国と妖精の国は統一され、その女王の座に着くのはオーロラだ。彼女は王妃ではなく女王になるのだ。
人間の国とは言わば、権力闘争に明け暮れているマッチョな「男の国」である。妖精の国は自然に溢れ平和で(「自然」も「平和」も「女性」のイメージとしてよく使われてきた)、マレフィセントが守護神であったところからしても「女の国」と見ることができる。「男の国」の王が死んだ後、マレフィセントを母のように慕う姫が、妖精たちに囲まれて玉座に。そこに後見人よろしく満足気に佇み、冠を授けるマレフィセント。あたかも皇太后といったところ。フィリップ王子の影は薄い。
これはどう見ても、「男」と闘い「男」を支配下に置いた「女」の勝利を示している。「世界は私たちのものよ、オーホッホッホ!」というマレフィセントの台詞がないだけだ。近年どんどんジェンダー・センシティヴになっているとは言え、ここまでやるかディズニー、と思った。


「あの子への私のこの気持ちこそが、真実の愛だったなんて!」の続きを書くと、つまりこういうことだ。
もう男(夫、子供の父)なんかいらない! 可愛い娘と忠実な僕(ディアヴァル:マレフィセントに助けられた烏。時々人間の男)さえいれば女は幸せ! 娘に養子をとって家の切り盛りを任せたら老後も安泰! さあ母親の役割が終わった、遊ぶわよーヒャッハー!(←観た人にはわかると思う)
マレフィセント』はダーク・ファンタジーと銘打たれている。それはどこまでも「女」のファンタジーである。男にとっては悪夢かもしれない。


‥‥‥てなことを書くとまた「ひねくれた見方」「穿ち過ぎ」という意見があるかもしれない*1が、もちろん「心に傷を負った一人の女性が、さまざまな葛藤の後に、人を愛することを通して、縛りつけられていた不幸な過去と歪んだ感情から自分自身を解き放っていく物語」(「アナ雪」もこれだ。ハリウッド映画に定着しているパターンの一つ)として描かれているのは、見ればわかる。
わかるが、というかわかるから深読みしたい。深読みできるように作られていると思う。


最後に物語以外で。


●美術が本当に見事。ファンタジー映画は背景の景色がカラフル過ぎていかにも作り物めいて見えることがよくある気がするが、同じ作り物でもなかなかシックに美しくまとまっていて世界観も明確、個人的にはビジュアルだけでウットリできた。特に西洋絵画好きな人ならかなり楽しめるだろう。17世紀オランダの風景画やブリューゲルに始まり、ミレイ、ブークロー、フリードリヒ、モロー、フューズリーなど、「あ、この絵見たことある」と言いたくなるほどロマン派絵画のエッセンスが濃厚に立ちこめている。
●純真で明るいオーロラを除くと、主要な登場人物のキャラが元の物語と逆転している。実は情に篤いマレフィセント、せこくて出世にしか興味のないステファン王、別に勇敢でも何でもないフィリップ王子、そして全然賢くない三人の妖精。オーロラの養育係となるこの三人は、人間に化けてからはほとんど”馬鹿”同然に描かれている。「家事育児を放り出して娯楽とおしゃべりと諍いに明け暮れている女」という類型だ。これはオーロラへのマレフィセントの介入を容易にするためのキャラ設定だろうけど、見ていて「女三人寄れば姦しい」という文言が頭にチラついた。
●元の物語ではドラゴンに変身した魔女とフィリップ王子が闘うが、ここではディアヴィルをドラゴンにして闘わせ、自分はマントをかなぐり捨てて、『トゥームレイダー』のララかキャットウーマンかというピチピチのボディスーツ姿を披露している。このあたりの派手なバトルはお約束なのだろうが、やや辟易。こういうのもう見飽きた。
マレフィセントは「木の妖精」ということだったが、あの力強く大きな焦げ茶色の翼はグリフォン(上半身は鷹、下半身はライオンの幻獣)のものではないだろうか。私としては巨大なグリフォンの姿になって、セクシーに尻尾をウネウネさせながら闘うマレフィセントも見たかった。最後の滑空シーンはすばらしい。


*1:twitterとこの記事が掲載されているBLOGOSを見たら早速そういう意見が出ていて思わず笑ってしまった。近年のディズニーがジェンダーにかなり配慮して作品を作っていることは周知の事実だし、わざわざ元のプリンセス物語の”真相”を語る(物語を語り直すのは女)という時点でそれが強く意識されていることは明らかであり、この内容が男女逆転して成立するわけがない。反発している人は「「男」と闘い「男」を支配下に置いた「女」の勝利」の下りをもって書き手が作品を評価していると見ているのだろうが、「「女」のファンタジー」と書いた通り、「男への恨みと母性愛」という”下世話”に駆動された末のなんだか呆れて半笑いになるしかない結末である(自分で言うのもあれだが、この程度の読みは少し映画を観てきた人ならしている)。