母と「タキさん」

夢見られた親密圏・・・『小さいおうち』感想


DVDを観てから原作も読みたくなって、遅ればせながら文庫で読んだ。引き込まれて一気に読了。映画で省略されていた戦前の東京の風景、当時の市井の人々の意識や感情。生活の細部描写もさすがに映画より詳細。
これは母に薦めたいと思い、実家に持っていく。母は昭和12年生まれの77歳。名古屋に隣接する小さな町で育った。


最初に映画を観た話を少しした。戦前の家庭の物語で、松たか子黒木華が共演したと聞くと母は興味を示した。
黒木華って『花子とアン』で妹やってる女優さんね。あの人、今時の女優さんに珍しい素朴な顔してるわね。んでニコッと笑うととっても可愛い。女中さんの役なの、ああそれは似合うわ。なんか賞穫ったってのを新聞で見たけど、へえ、その映画で」
などと喋り、文庫を開き、
「あら、字が小さいわ〜。こういう小さい字はもうしんどいのよ‥‥‥眼がすぐ疲れちゃってねぇ」
と眉を顰めた。
じゃあ、単行本を古本で買って今度持ってくるわと言うと、「悪いわね、でもチラッと読みたいからこの本は置いていって」と母は言った。


その日の夜、母から電話がかかってきた。とても弾んだ声。
「あれから、『小さいおうち』読んでるの。読み出したら、眼が疲れるんだけどまぁ止まらなくなってねぇ。面白い。とっても面白い。この本は私、これから何回も読み返すと思うわ。うん、まだ半分は行ってない、眼を労って今日はよそうと思って。そんであのタキさんってねぇ、昭和10年で17、8歳でしょ、てことは岐阜の伯父さん(だいぶ前に亡くなった私の父の兄)と同じくらいよ。そんで時子さんは8つ上だから、ちょうどおばあちゃん(だいぶ前に亡くなった母の母)と同じくらい。おばあちゃんは明治43年生まれだから、ほとんど同い年よ。ね。おばあちゃんもねえ、お寺の娘で着物を箪笥に一杯持ってお嫁入りしたのに、戦争中に全部お芋やカボチャに化けちゃったのよ、私や姉に食べさせるために。いい着物たくさんあったのよ。貧乏教師に嫁いだから苦労したわね、おばあちゃんは。私が結婚する時も、着物なんてほとんど持たしてもらえなかったものね。時子さんは再婚していいとこの奥様になって良かったわねえ。だいぶ年上だけど優しい旦那さんで。タキさんもついていって良かったわ。昔は若い女中さんは旦那さんにお尻触られたりね、女中に手を出すってよくある話だったのよ、ちょっと書いてあったけど。そんで妊娠させちゃったりしてねえ。でも昔の奥様は、女中の子でも可哀想だからうちで自分の子と同じに育てるって鷹揚な人もいてね、女中さんは郷里に帰らせて。そんなおうちもあったようよ。だからタキさんは良かったわ。でもタキさんって文章上手ねえ。すごくよく観察しているわ、周りのことを」


いや書いているのは「タキさん」じゃなくて中島京子さんだから‥‥と言おうとしたがやめた。母の中では、「タキさん」が実在の人物になって動き出していた。


「タキさんはいいとこにご奉公に行けて良かったわよねえ。うちのおばあちゃん(だいぶ前に亡くなった姑)も、横浜のグランドホテル設計した人のお宅に奉公に行って。女学校行ってるお嬢さんたちの小間使いで。羨ましかったんだろうね、自分も裁縫学校行かしてもらったのよ。そんでおばあちゃん、17歳でずっと年上のバツイチのおじいちゃんとお見合いして、顔もほとんど見ないで結婚したのよね。タキさんはお見合いするの? するけど結婚しないの。あ、そうだったわね、ずっと独身なのよねタキさんは。一人で頑張ってこられたのね。偉い方だわねぇ。それでほら、奥様に銘仙の着物もらうでしょう。あれを仕立て直すって、タキさん和裁もできたのかしらね。前のおうちで上の女中さんに仕込まれたのかしら。おばあちゃん(自分の母)もよく仕立ての内職してたわよ。昔芸者さんだったような人が、派手な着物を仕立て直してくれって持ってきたりね。私が学校から帰るといっつも針仕事してたわね。近くでミカンでも食べようものなら、汁が飛んでシミがつくからあっち行きなさいって怒られたわ」


小一時間あまり、時々二人の「おばあちゃん」の話に脱線しながら、母は水を得た魚のように喋りまくった。
小説の中に描かれる東京郊外の戦前と、母の体験した地方都市の戦前。母がその母や姑から聞いた更に昔の話。それらは母の中で繋がり、渾然一体となっていた。
かつて中流以上の家庭で女中の仕事であった家事全般、育児(の手伝い)、主人の身の回りの世話は、戦後はほぼ専業主婦の仕事となった。母は二十歳で一回り年上の父と結婚してずっと育児と家事に専念し、今も家の隅々まで整然と片付いていないと気の済まないような人なので、時子にもタキにも半分ずつ感情移入しているようだった。


昨日、アマゾンで買った古本の単行本を実家に持って行った。
「ああこれはいい。字が大きい」と母は嬉しそうに言った。
「読んでいると、ほんとにいろんなことを思い出すわね。なんか最近、昔のことがとっても懐かしい。まあ私も歳を取ったのかねぇ。で、タキさんは最後どうなるの」。
当分、母の「タキさん」ブームは続きそうだ。


小さいおうち (文春文庫)

小さいおうち (文春文庫)



●関連記事
「私、朝鮮の人になっていたかもしれない」と母は言った
祖母と「おりぼん」