「芸術鑑賞法」と「既知の器」

「好き」「嫌い」を越えた芸術鑑賞法があるとしたら - (チェコ好き)の日記


自分のブコメ

[アート]「自分の人生に真摯に向き合って」「生涯をかけて」「あなただけのために作られた作品」を見つけ出せって。修行して心眼を鍛えろみたいな。コツコツ美術史勉強するより難易度高いがな。


と思ったのは、言葉の選択に(ブログ主も書いているように)スピリチュアル感が濃厚に漂っているからだけど、「自分の人生に真摯に向き合って」「生涯をかけて」いったら、それは一般的な意味での「審美眼」を磨いていることにならないか?とも思ったりした。
元記事の主旨と大幅にずれるかもしれないが、個人的にはガリガリ噛み砕きたい方なので、そういうふうに解釈して書いてみる。

「審美眼」とは、一般的には「美を見極める能力」のことです。なんだそれ、結局美術史とかを勉強して知識を身に付けろってことか、と思うかもしれませんが、ちがいます。美術史上で正しいとされている、市場で高い値がつく、そんなものを見極められるようになっても、あなたが美術史家やギャラリストやコレクターでない限り、それは何の役にも立ちません。
私が考える本当の意味での「審美眼」は、「みんなが同じように美しいと思うもの、だれもが同じように高く評価するもの」を見極める能力のことではありません。「自分のためだけに作られたものが、自分のためだけに発しているメッセージに気付く」能力のことです。


「美を見極める能力」は、美術においては「それが名作である/ない理由を的確に把握できる能力」だ。「「みんなが同じように美しいと思うもの、だれもが同じように高く評価するもの」を見極める能力」とは少し違うと思う。むしろ「たとえみんなが気がつかなくてもそこに美を深く見極める能力」ではないか。「さすがお目が高い」なんて言葉があるように。
これを鍛えるには、とにかく世の中に出回っている「いいと言われるもの」をたくさん見る必要がある、とはよく言われること。美術館に置かれている歴史的に「いいと言われているもの」、百貨店画廊や街のギャラリーにある一部の目利きに「いいと言われているもの」。とにかく何でもえり好みせず、見てみることだと。
美術作品を熱心にたくさん見続けられるということは、それだけ美術に対して強い興味を持続させているということだ。その原動力の一つとしてあるのが、作品をめぐる情報(作品解説から美術史まで)の摂取。ある程度興味をもって作品を見ていけば、そうした情報は自然と入ってくる。もっと知りたいと思えば、自然と入ってくる情報を丁寧に捉えて「美術史とかを勉強して知識を身に付け」るということもするだろう。


ここで、鑑賞体験とはどういうものか、考えてみよう。
まず、個人の生活体験や趣味や一般常識など、誰でも自分の中に既に一定の「既知の器」がある。私たちは作品に対面する時、無意識のうちに「既知の器」の中にあるものを総動員して、作品から何かを感じ取ろう、理解しようとしている。深く「器」を掻き回してくれる作品、時には「器」をひっくり返しかねない作品は、その人にとって重要な作品ということになるだろう(たとえば「既知の器」に一般常識が強固に根付いている人は、そこから外れようとする作品が受け止められないことがある。反面、理解した場合の衝撃も大きい)。
時々、新たに外から情報が入ってきて、「既知の器」の中に定着する。その「知」は、作品解説や美術史だけとは限らない。個人的に得た生活の知恵だったり、生物の知識や経済情報だったり、誰かとの出会いや別れで知ったことだったり、最近見た映画や読んだ本だったり、「一般常識は案外当てにならない」という知見だったりする。そして、次に作品を見る時は、前より少し形が複雑になったり容量が大きくなったりした自分の「既知の器」でもって、作品を体験する。
こうしたことの蓄積によって、その人の中にその人なりの教養が形作られていく。対象が映画でも音楽でもアニメでも同じことが言える。皆それぞれの教養をもって、作品を享受している。趣味も審美眼も教養で作られる。教養は、本に書いてあること(だけ)ではない。その人の作品体験とそれ以外の個人体験と外部の知が渾然一体となって、出来上がっていく。


美術史家やギャラリストやコレクターはそれを仕事に使って、生業を立てている。彼らは比較的裕福な家の出身が多い。ぶっちゃけて言えば、貧乏な生活をしていると「美術の教養」はなかなか養えない。頑張って養ってみても、衣食住にわたって物心ついた頃から「いいと言われるもの」に囲まれ、それらを愛で、自分が「いい」と思ったアートを身近に置けるような生活をしてきたような人には、微妙なところでちょっと敵わないことがある。
だが一般の人にとって美術は生業ではなく趣味なのだから、それほど厳しい目をもつ必要はない。逆に言えば、あくまで趣味で厳しい目を養ってもいい。興味の赴くままに「既知の器」をどんどん刷新し、耕し肥やして目利きになってもいい。
それが「何の役にも立ちません」というなら、芸術鑑賞など「何の役にも立ちません」ということになるが、別にそれでいいのである。


「自分のためだけに作られたもの」「自分のためだけに発しているメッセージ」という言い回しで思い浮かんだのは、夜、高層ビルの電飾を恋人に当てた「◯◯、お誕生日おめでとう!」という文字が浮き上がるようにしてもらうやつとか、重要な秘密をある人にだけ伝達するために描かれたミステリーに出てきそうなトリッキーな絵画とかだった。かなり特殊なものである。
いやもちろん、そういうストレートな意味ではなく、言葉のあやがあるということはわかる。あたかもそれが「自分のためだけに作られたもの」で、「自分のためだけに発しているメッセージ」であるかのように錯覚させるほど、特別に強い吸引力をもった作品ということだ。たくさん見ていく中で、それに出会える僥倖を掴む人もいるだろう。例えて言えば、「既知の器」に、あつらえたようにぴったりと嵌る蓋を見つけるようなものかもしれない。


ただ、もし素で「これは自分のためだけに作られたもの」「自分のためだけに発しているメッセージ」としか思えないのなら、それは、自分以外の人には本当のところは理解できない、心からは感動できない作品ということになる。自分以外の鑑賞者は、その作品の真の受け手ではない。真の受け手は自分だけ。
本当にそう思い込むしかないとしたら、その人がするべきことはその作品を買って自室に置いて、人には見せないということだろう。死ぬ時は棺桶に入れてもらうか、一緒に燃やしてもらう。だってそれは、唯一「自分のためだけに作られたもの」で「自分のためだけに発しているメッセージ」があり、自分以外の人が見たって意味がないんだから(日本人の金持ちコレクターで、かつてそういう行動に出ようとした人がいた記憶が)。
‥‥と、極論を書いてみたが、それはいくら何でも独善的で狭量だと思う。*1


直球ど真ん中の「クリリンのことかーっ」(古い)と叫びそうな、あるいは「泣きたくなるほどどこもかしこも私向き」と思えるような、「こういうのに出会いたかったんだ、今わかった」と思えるような作品に運良く巡り会った時、私はその興奮を人と分かち合いたくなる。一人でも多くの人と同じ興奮を共有できると、嬉しくなる。嫌いだった人まで少し好きになったりする。私とは違う角度で作品を受取った人も探したくなる。それについて一晩中でも誰かと喋っていたくなる。
「これを本当にわかるのは自分だけ」の特別な世界も、捨て難いものはある。美術品の多くは一点「物」だから、そっちの方に行きやすい。でも私は「自分だけかと思ったら他にもいた!」の世界の方で生きたいタイプのようだ。

*1:実際は、誰も欲しがらないような作品を、所有したいと思う人はいない。欲望は「他者の欲望」であり、みんなが喉から手が出るほど欲しがっている作品を(競り落として)自分が買うからこそ、意味がある。