教える者と教わる者は出会えない‥‥漫画『かくかくしかじか』を読んで

将来の夢は漫画家でやたら自己評価の高かった能天気な宮崎県の女子高生、林明子(作者、東村アキコ自身)は、美大受験のため友人に誘われて行った絵画教室で、ジャージ姿に竹刀を持った鬼のような日高先生に、肥大し過ぎた自意識を木っ端みじんに叩き潰される。
地獄のようなデッサンの特訓の日々。日高先生にとことん鍛えられ、失敗したと思っていた金沢美術工芸大学に合格。しかし念願の美大に入ったとたんに、絵を描く意欲も漫画家デビューに向けて頑張る気力も失せ、ひたすら無為の日々を過ごしてしまうのであった。


かくかくしかじか 1 (愛蔵版コミックス)

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17歳頃から20代半ばまで、美大時代を挟んで8年に渡る日高先生との交流を中心に、普通ならあまり人に語りたくないような青春の黒歴史の日々が、微に入り細に入り描かれている。若い頃の傲慢、怠惰、甘さ、ズルさを、過剰な自虐に持っていくことなく、ギャグやユーモアを交えながらも厳しい内省を持って見つめている作者の姿勢が清々しい。
だが、過去をここまで赤裸裸に描くまでには、随分葛藤もあったことが伺われる。「思い出すと いうか 無理矢理 記憶を 閉じ込める 引き出しを 少しだけ開けて /嫌々 あの頃の 自分と向き合う」(第五巻 p.41)
それだけに、イタい場面も多い。美大生(だった人)や、画家や漫画家を志したことのある人の多くは、身に覚えのある感覚、感情を呼び起こされるだろう。「ああ、私にもこういう時期あった」「わかるわかる」「うわー」と、心の中で呟きながら読んだ。


林明子の人生に多大な影響を及ぼすことになる、日高先生。型破りなスパルタ指導で生徒たちに恐れられつつ、言うことも行動も徹頭徹尾一本筋の通ったこの人物が、とても魅力的だ。
「描け!」という言葉(命令)が何回となく出てくる。グダグダ言わずに描け。とっとと描け。どんどん描け。もっと描け。
画家や漫画家にとっては当たり前のことだろうが、見ること描くことの膨大なトレーニングの集積が、後々モノを言う。量が質を形成するのだ。
だが、美大に入り故郷から離れ、つい楽な方へと流されていきがちな主人公の日常の中で、あれほど圧倒的だった日高先生の存在感は徐々に薄れていく。教え子が画家になると信じて純粋な期待をかけ続ける先生を、疎ましくさえ思うようになる。
先生からいかに重要なことを体に叩き込まれていたか。それに彼女が気付くのは、大学を卒業しやっと漫画家デビューしてからである。だがそれが、当の先生に告げられることはない。彼女の苦い悔恨と、先生への思いが胸に沁みる。


個人的な話だが、私もかつて美大受験生であったと同時に、その指導に十数年関わった時期がある。日高先生の迫力とブレなさにはとても及ばないが、両方の立場に立った経験から、読み進むうちこれは「教える者と教わる者との宿命的なずれ」という、普遍的なテーマを扱っているのだと気付いた。
教わる者は、教える者の意図が読めない。先生は何かを知っているらしいのだが、自分には見えない。言われた通りに頑張っても必ず結果が出るとは限らないし、こんなことやって何になるの?と、どこかで思っている。そういう中で、無理矢理自分を納得させてやる。やらなきゃいけないから、やる。
教える者は、教わる者がそう感じているのを知っている。結果が出るか否かは、教える者にも実はわからない。でも「やれ」と言うしかない。最近は「これをやっとくとこういういいことがあるよ」と言わないとヤル気を出さない生徒もいるので仕方なく言ったりするが、内心「今すぐわからなくてもいい。とにかくやれ」と思っている。


だから両者が、現場で真に「出会う」ということはない。教える者と教えられる者は、常にずれている。
もっともずっと後になって、「あの時、先生の言っていたことが、やっとわかりましたよ」と教え子に言われるのは、教師冥利に尽きるだろう。だがほとんどの場合、「ああこういうことだったのか」と思い当たったとしても、恩師にそう告げる機会などないまま過ぎていくだろう。そういうものだと思う。
全然タイプは違うが、私にも日高先生に当たるような人がいた。しかし過去に出会った何百人という美大受験生にとって、自分がどんな「先生」だったのかは、皆目わからない。