再掲『海とマリ ― 少女の思い出』(二十歳の時に戦争を体験した父の書いた話)

愛知県立旭丘高校の教員で童話部の顧問をしていた父が、1967年頃に生徒の求めに応じて部誌に投稿した短編。父はいくつかの少年少女向けの読み物を書いていたが、その中でも父自身の思い出と、幼い頃の私の記憶が重なった作品として、心に残っている。
この小品の中の「わたし」とは、5歳当時の私のこと。「きれいな海のそばにある学校」とは、父が一時期勤めていた鈴鹿工業専門学校。泳ぎの得意だった父は水泳部の顧問で、夏休みの部活に連れていってもらったことを微かに覚えている。
これを読まれた人は、1972年にグアムで発見された元日本兵横井庄一さんを思い浮かべるだろう。結果的に予言をしたかのような作品になったが、父にとってはそれは何ら驚くべきことではなかったようだ。


三年前の8月15日、これを当ブログに掲載した当時、父はまだ生きていた。一年半後に89歳で亡くなった。
1924(大正13)年生まれ。1944年、海軍三重航空隊に入隊。翌年、特攻機「桜花」の搭乗員に配属。その時点で早晩死ぬことは決まっていたが、練習機での訓練中の事故で怪我をし、その治療中に終戦を迎えた。

海とマリ ― 少女の思い出


 それは、わたしがまだ五つぐらいの女の子だったころのことです。
 そのころ、わたしのおとうさんは、とても遠いところにある学校の先生をしていました。その学校は、きれいな海のそばにあるので、ある夏の日に、おとうさんは、わたしをその学校のそばの海につれていってくれました。
 電車に乗る駅についたとき、おとうさんはわたしをその駅にあるデパートにつれていき、ビニールでできた、水玉もようの大きなマリを買ってくれました。それから長い時間、電車に乗って、おとうさんの学校がある、海のそばのいなかの町で電車をおりました。
 私は、海を見るのがはじめてのことでした。広い海、いっぱいの水、こわい波、海はひっきりなしに動いていました。
 そこでは、おとうさんの学校の学生さんたちが、水泳の練習をしていました。おとうさんが号令をかけると、学生さんたちは海にはいって泳いだり、海からでて休んだりしました。わたしは、幼稚園のプール遊びのときの赤い水着を着て、砂浜のところで、大きなビニールのマリをころがして、ひとりで遊びました。マリは大きくて軽く、よくころがりました。ころがると、水玉もようがいっそうきれいに見えました。おひさまはまぶしく、砂浜は熱くて、足のうらがいたいくらいでした。


 どこからか、きゅうに風が吹いてきて、ビニールのマリがいきおいよくころがりはじめました。わたしはあわててマリをおいかけていきました。マリはころころと、砂の上をころがって、海の波がよせている方へ走っていきます。わたしは波がこわいこともわすれて、海の水のなかにマリをおいかけて、すこしはいっていきました。すると、とても大きな波が、わたしをめがけてよせてきました。わたしはこわくなって、砂浜の方へにげだしました。マリはその大波にさらわれたかと思うと、波のてっぺんから砂浜の方へ、いきおいよくとばされてきました。わたしはいそいで、マリの方へ走っていきました。しかし、マリは波に乗って砂浜の方へ流れてきたかと思うと、すぐ海の方へひいていく水にひかれて行ってしまい、つぎの大波にふわふわとさわられてしまいました。マリはそうした同じことをくりかえしながら、だんだんと海の深い方へ流されていってしまいました。
 おとうさんは海の沖の方を、学生さんたちといっしょに泳いでいました。わたしは海の波がこわくて、砂浜に立ったままで、波にゆられていく、きれいな水玉もようのマリを見ていました。マリは波にゆられて、あがったりさがったりしながら、どんどん沖の方へいってしまいました。


 夕方になって、おとうさんは学生さんたちといっしょに、泳ぎをやめて海からあがってきました。号令をかけて体操をすますと、学生さんたちは、わたしにも「さようなら」と言って家へかえっていきました。
 わたしもおとうさんと、また電車に乗ってかえりました。電車に乗ってからおとうさんが、
 「マリはどうしたの?」とききました。
 「風が海のむこうの方に、わたしのマリをもっていってしまったの」とわたしが泣きだしそうになって答えると、おとうさんは、
 「軽くてよくころがるからね」と言って、それきりなんにも言いませんでした。
 しばらくして、わたしが、
 「おとうさん、マリはどこまで流れていくの? 南の海の、土人さんの住む暑い島まで流れていくの?」と言うと、おとうさんは、
 「そうだね」とだけ言ったまま、しばらくだまっていましたが、やがて、こんなお話をはじめました。
 わたしは、もうくらくなったそとのけしきを見るのもやめて、おとうさんのひざの上にだかれながら、電車にゆられて、おとうさんのお話にききいっていきました。


 「水玉もようの大きなマリは、海の上を吹くあたたかい風に吹かれ、波にゆられて、沖へ沖へと流れていきました。海の水は、海岸から沖へいくとだんだんきれいになり、工場から流れてくる油も、町から流れてくるごみも、もう浮いてはいません。やがて、海の水の中をきもちよく泳いでいく魚が見えてきました。小さい魚が、マリのまわりに集ってきて、いそがしそうに、マリのまわりをむれをつくって泳ぎまわりました。小さな魚のむれがどこかへかくれてしまうと、こんどは大きな魚がやってきて、水玉もようのマリをいくどもつつきました。そのたびに、マリは海の波の上にとびあがりました。マリはそうして大きな魚たちにつつかれつつかれして、広い海を南へ南へと流れていきました。
 ある日、マリは、黒いけむりをむくむくと出して、大きな船がやってくるのに出会いました。しかし、その船は、この水玉もようのマリにぜんぜんきづかず、大きな波をのこして行ってしまいました。船がすぎたあとには、白い海鳥がなんばもとんできて、マリをつついていきました。マリは鳥たちにつつかれるたびに、ぴょんぴょんと波の上をとびはねました。海鳥たちは、しまいにはあきらめて行ってしまいました。
 海の夕陽は、その赤い空の色が海の水にうつって、とてもきれいでした。海の夜は、星がいっぱい見えて、まるで空いっぱい宝石をちりばめたように光っていました。マリはそうしてなんどもきれいな夕陽をながめ、なんどもきれいな星空をながめしているうちに、海の水がとてもあたたかくなったことにきづきました。夜には南十字星という、南の国のきれいな星も見えはじめました。
 水玉もようのマリは、ある日、たくさんの魚が死んで流れている海にきました。魚たちはみんなアメリカの原子爆弾の実験で死んだのでした。海の上に浮んで、白いおなかを出して流れていく魚は、なん千匹なん万匹あったのか、かぞえきれません。からだじゅうの皮がむけたり、ただれたり、みんなやけどをしたようになって死んでいました。
 またある日、水玉もようのマリは、たくさんのアメリカの軍艦が、近くを全速力でとおっていくのを見ました。小さな島のような船の上には飛行機がたくさん乗っていました。高いやぐらのある、大砲をいくつものせた船もいくつか走っていきました。どこかで戦争があるのでしょうか。水玉もようのマリは戦争をこわいと思いました。マリに鉄砲玉があたったら、マリははぜて死んでしまうでしょう。だからマリは戦争がきらいでした。
 水玉もようのマリは、それからも、どんどん南の方へ、風に吹かれ、波にゆられて流れていきました。大きなヤシの木が海岸に並んで見える、土人さん*1の島のそばも、いくどもとおりました。


 ある日のことです。水玉もようのマリが、やはり、大きなヤシの木が海岸にならんだある島のそばを流れていると、ひげぼうぼうのはだかの男が、マリを見つけて、海岸からまっすぐ泳いできました。男は泳ぎがたいへんうまく、マリのところまでまっすぐに泳いでくると、マリをだきあげ、片手にマリをもち上げて、岸の方へ、片手でじょうずに泳いでかえりました。サンゴがいっぱいある島の海岸には、赤い日の丸のしるしもはげ、こわれて赤くさびた日本の飛行機がひっくりかえったままになっていました。
 ひげの男は、海岸にこしをおろして、しばらく水玉もようのマリを見つめていましたが、マリに書いてある文字を見て、それが日本の国から流れてきたことを知ると、マリを抱きしめて男泣きに泣きました。そして、生きているうちに、日本の国へかえりたいとしみじみ思いました。
 このひげの男は、その昔、日本の飛行機乗りだったのです。昔、日本の国とアメリカと戦争をしたとき、このひげの男の乗っていた飛行機は、故障をおこして、この島の海岸におりたのでした。そのうち、日本の国が戦争にまけてしまったので、この飛行機乗りの男は、たった一人、この島にのこされてしまったのです。日本の国からは、まだ、だれもたすけに来てくれません。このひげの男がいる島だけでなく、この南のあちこちの島に、戦争のあとにとりのこされたままになった、たくさんの日本の兵隊さんがありました。食べ物もなく、たすけに来てくれる人がないのを悲しんで、たくさんの兵隊さんがそのまま死んでいきました。この飛行機乗りの男は、泳ぎがうまく、海に入って、魚や貝や、海草をとってたったひとりで、二十年あまりも、日本からたすけが来るのをまって生きてきました。この男が、この島に来たときは、男はまだ二十歳ほどの若者でした。しかし今では、もう四十歳をこえてしまっていました。男はもう日本の国からは、だれもたすけに来てはくれないのだとあきらめました。そこで、海岸に生えている高いヤシの木にのぼり、その上から、かたいサンゴの岩の上に落ちて、死んでしまおうとさえ思っていました。
 ところが、この水玉もようのマリを手に入れてからは、男は死ぬのをやめました。まいにち、マリをついたり、マリを空高く投げたり、マリを抱いて日本の国をなつかしがったりして、たのしんでいました。おわり」


 おとうさんは、お話をおわっても、電車の窓のむこうに見える、夜のくらい南の空をみつめているようでした。
 わたしはおとうさんが若いころ戦争に行って、海軍の飛行機に乗っていたことを、おかあさんからきいたことがありました。その南の島にひとりのこされている、飛行機乗りの日本人は、おとうさんが飛行機乗りだったころのお友だちなのかもしれません。わたしは、そのおじさんが、はやくたすけられて、日本の国へかえってくることができるようにといのりました。 
 そしたら、そのひげのおじさんは、あの水玉もようのマリをもって、おとうさんをたずねて来るにちがいありません。そのとき、そのおじさんは、わたしといっしょにマリ投げっこをして遊んでくれるでしょう。


『青い湖』(大野健二、1975年、書肆季節社)より。初出:愛知県立旭丘高校童話部誌『どんぐり』第二号(1967年)

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*1:土人さん」とは今では差別用語だが、当時は普通に使われていたので原文のまま記す。