「盗作さん」と言われた話

(※この記事は五輪エンブレム問題における佐野氏の責任に言及するものではありません)


ohnosakiko デザイン, 社会 佐野氏の人柄とかこれまでの仕事などにあまり関心はないが、今回この件で「クリエイト」ということにたくさんの人が強い期待を抱いていてオリジナリティ神話が生き続けているのを目の当たりにした気分
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ohnosakiko デザイン, ネット >インターネットの本質である「共有」というシステムを、自らの個人的な名誉と利益のために利用したというところ/デザイナーはエディター(出自を明らかにしたありものを編集する)に近いという認識が必要かも。
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五輪エンブレムの騒ぎについて私が書いたのは上の二つのブコメだけだが、その後、読売新聞に寄稿された美術評論家椹木野衣氏の文章を、twitterの写真で読んで、ああ確かに‥‥と思った。



少し加えると、戦後50年代から70年代はアートや音楽と同様に、デザインでも本当に新しい!と思えるものがどんどん出てきていた時期*1 だから、デザイナーが作家的な意識を持つのも仕方なかったのではないだろうか。
アートはその後、モダンアートの文脈で一旦出るものが出尽くしてから、既成の物やイメージを寸断、借用して新たな文脈に落とし込む盗用芸術(シミュレーショニズム)が登場し、その確信犯としての行為と再編集で生まれる意味がある種「パクリ」の免罪符となってきたけれど、デザイナーはクリエイター(創造者)などと呼び換えられつつ、デザイン界もメディアも個人をスターとして持ち上げるところが残っていたことが、今回の背景にありそう。
ありものを利用しても優れたデザインへのオマージュとわかるものは、「パクリ」とは呼ばれない。あらゆるデザインの膨大なアーカイヴ、それらがネット上で誰でも検索可能であることを考えると、「誰の真似でもなく、一から作り上げることが重要」的意識ではなく、既にある遺産からどのように再編集して新鮮且つ使えるものにするかという”リサイクル術”に重心が置かれていく(もちろんそれはデザインの仕事の一部だが)のだろう。その中では、従来的な作家的要素はどんどん薄まっていくと思う。



ここからきわめて個人的な話。
私はかつて、自分の作ったある作品について、「盗作だ」と周囲に噂されたことがあった。1970年頃、小学5年生の時のことである。
夏休みの自由課題で、工作が出た。「テーマは自由。自分で工夫して自由に作ろう」と言われたがアイデアが決まらず、学校の図書館で何か参考にするものはないかと探し、ある古い工作の本を見つけた。
そこに載っていた、金属のパイプが風でぶつかり合って音を出すという、ちょっと手の込んだ風鈴みたいなのにとても惹かれた。円盤から少しずつ長さの違う細い金属パイプが輪っか状に並んでぶら下がった形態も、何かの楽器のようで美しい。どんな音がするんだろう。これ、作ってみたいなと。
その時、「本を見て真似して作ったものだから、”自分で工夫して自由に作ろう”じゃなくなるな」とは思った。この工作の本を誰かが見たら、「なんだぁ、真似っこじゃん」て言われるかな。それはちょっと厭な気もした。でも、黙ってたらわからないかも。いいや。やっちゃえ。


小学5年生には、少し難易度の高い工作だった。当時は東急ハンズなどないので、金属のパイプをどこで手に入れたらいいかも知らないし、切断も自分でできないのだ。
父に相談し、近くの商店街の鋳物屋さんに行って、図面(工作の本から引き写して描いた)を見せて、同じパーツを作ってもらった。それをかなり苦労して組み立てて、やっと作品ができた。金属パイプが少し厚かったせいで重くなり、ちょっとやそっとの風では鳴りそうになかったので、「台風鈴」と名付けた。
二学期が始まって提出すると、担任の先生はとても面白がってくれた。クラスの男子で工作の得意な生徒が何人かいたが、客観的に見て私の作品はそれらより大人っぽかったと思う。当然のことながら。そして、「優秀作品」として選出された他のクラスの生徒の作品とともに、体育館での展示会に出された。


しかし同じ頃、クラスの男子の一人がたまたま、実にタイミングよく、図書館であの古い工作の本を手に取り、私の作品のネタ(ネタというかそのまんま)を見つけてしまった。すぐさま数人の男子たちが、私の方を見ながらニヤニヤヒソヒソしているのに気付いた。そして、すれ違いざまに何度か「盗作さん」と言われた。
私は黙っていた。「盗作」と言われれば「盗作」そのものだから。「自分で工夫して自由に作」ったものじゃないから。工作の本を見て作ること自体は問題ないが、今回は「自分で工夫して自由に作ろう」だから課題違反となるだろう。
図画工作が得意で、クラスの中では「絵の上手い子」ということになっていた自分。他は別にパッとしないのに、図工と音楽だけはできる子。そういう子が本を見て作品を作っていたというのは、クラスメートたちの恰好のネタだったらしい。表立って糾弾されはしなかったが、「盗作さん」にとってはしばらく針のムシロの日が続いて、学校に行くのが憂鬱になった。


ある時、版画(またもテーマは自由)の課題で「馬」を選び、その馬の目を思い切り大きく、たてがみと尾を思い切りワーッと宙に波打たせたファンタジックな下絵を描いた。ある友だちは「すごい、変わってる」と言い、別の友だちは「このシッポどうにかならないの?」と言った。いや、これはこういうデザインをしてるんじゃん‥‥。
頭の中にあったのは、藤城清治の影絵と宇野亜喜良のイラストだった。自分の宝物で毎日のように眺めていた彼らの本から、当時の私は強い影響を受けていた。周囲に藤城清治宇野亜喜良を知っている人が偶然いなかったから、私の下絵は「個性的」に見えただけだ。


「誰の真似でもなく、一から作り上げることが重要」というテーマは、私の世代の頃から学校教育の中にあったと思う。特に美術教育は「自由と個性」が最大限に賞揚される科目だ。
だが、図画工作に関する限り「自由で個性的」と周囲に思われていたらしい私のやっていたことの大部分は、引用とアレンジだった。そして本に載っているのを自分で考えた作品であるかように提出していた。
「台風鈴」に似たものはあちこちにあるんだと知ったのは、大分後である。

*1:実際には、横尾忠則のポスターなどさまざまな意匠の引用でオリジナリティを出すものもあったが。