「福山ショック」から思い出した「泥足にがえもん」への恋

「福山雅治が結婚したので、帰ります」 女性たちの福山ショック【20選】


人気の凄まじさを再認識しつつ、16、7年前、仕事先の大学の男子学生と話していて「ところで福山雅治ってそんなに人気あるの?」(←世間知らず)と言ったら即座に、「何言ってんですか!福山嫌いな女の子なんていないっすよ」と言われたことを思い出した。
そうなんだ。そりゃ私も「好きか嫌いか」と言われれば、好きな方かな‥‥とは思うけど。
個人的には、

ohnosakiko (デビュー当時、雑誌で好きなタイプを聞かれ「ロングヘアで料理上手で女らしく控えめな人」みたいなことを言ってて、ベタな本音を衒いなく言う人だなと感じたことを思い出した。今でもそんなに印象変わってない。 2015/09/29

http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20150929#bookmark-267473326


というイメージがある。上の発言は確かan・anの芸能欄の小さな囲み記事で見たもので、90年前後、福山雅治は20代の初めくらい。言う人が違えば反発受けたり揶揄されそうなことを堂々と語れるツルリとしたイケメンの写真を見て、女性のファンタジーを引き受けられそうな顔をしていると思った。


今回の福山結婚のニュースにはもちろんびっくりしたが、それは「大物スターの突然の結婚報道」に驚く以上のことではなく、考えてみると、芸能人に入れ込んだことがない。この人いいなぁと思うと、出演している映画などをDVDで2、3本見て、それで気が済んでしまう。
‥‥いや、正直に書こう。一時期、後追いでジェームズ・コバーン(古い)に嵌っていたことがありました(昔、こっちに書いた)。
今はネットを通してあらゆる情報が手に入るので、「神秘のベールに包まれているがゆえに憧れが募る」という感情が育ちにくい気がする。だから「結婚したい」とまで思えるのは本当に結婚を目論んでいるわけではないにしても凄いなと感じる反面、それはスターが身近な存在に思えるから出てくる言葉ではないかと思う。



実在の人でなく、創作上の人に憧れるということはある‥‥と言うと、マンガやアニメを連想する人が多いかもしれない。
私の子どもの頃の心のアイドルはマンガの中にはなく、お話の世界にあった。やや特殊だが、ナルニア国物語4巻目の『銀のいす』に登場する「泥足にがえもん」。人外である。
沼地に住んでおり、ひょろりと痩せていておそろしく手足が長く、指には水かきがあり、顔は長く鼻が尖り、顔色は泥のようで髪の毛は黒っぽい緑色、泥色の服につばの広い先の尖った帽子を被り、真面目だが愛想はなく、何でもまず悪い予想を立て、余計なことは喋らず、陰気くさい。



『銀のいす』(岩波書店)p.85、p.88のイラスト
(釣りをしている後ろ姿はちょっとスナフキンに似てると思う。スナフキン好きな人は多いですよね)


泥足にがえもんと人間界から来た二人の子どもは、魔女にかどかわされた王子を探す冒険の旅に出る。しかし、地下世界で魔女の魔法にかけられ、「ここより他の世界などない」という偽りの認識に捉えられてしまう。
その時、一人だけしつこく抗うのが泥足にがえもんだ。それまでは、意外と頼りがいのある人くらいのイメージだったのが、ここで隠された魅力が爆発。
魔女との問答が続く中、泥足にがえもんの23行にも上る最後の抵抗の台詞‥‥その中心になっているのは「あたしに言えることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ」というのだ‥‥がすばらしくて、読みながら思わず泣いてしまった。
その頃の私は学校で軽いいじめに遭っており、かといって家で親の監視下にあるのも辛く、ひたすら空想や物語の世界に逃げ込んでいたので、にがえもんの言葉に思いがけず救われた気持ちになったのだと思う。


そういうわけで、小学生から中学生にかけては「泥足にがえもん」一筋だった。後年、ジェームズ・コバーンのファンになったのも、若い頃のコバーンになんとなく「泥足にがえもん」のイメージを見ていたからじゃないかと思う。
先日書いた元祖・黒髪白シャツ男の原型が、若い頃の父だったと後で気づいて自分のアディクションに慄然となったが、「泥足にがえもん」は父とは全然別のキャラなのでとりあえず安心だ(何が)。



私の持っているのは、1966年版のこの表紙。

銀のいす (ナルニア国ものがたり (4))

銀のいす (ナルニア国ものがたり (4))