『電信柱エレミの恋』と『ローマの休日』、欲望と責任の問題

今期から京都造形芸術大学のアート・プロデュース学科の学生対象に、「観る・読み解く・書く」というテーマの講義をやっている。この数週間は、中田秀人監督の短編ストップモーションアニメ『オートマミー』(2000)と、同監督の中編『電信柱エレミの恋』(2009)を見せた。


前者は、親が通販で買った育児ロボットに子どもを養育させ、それが失敗したと見るや子どもを捨ててしまうという衝撃的な内容で、ややグロテスクな場面もありブラックな味わいのもの。後者は、電信柱のエレミが電力会社の作業員タカハシに恋をするという、ほのぼの系だがせつない物語。
『オートマミー』(2000、SVAT THEATER)再見 - Ohnoblog2(検索するとうちの記事がトップに出てくる‥‥)
ELEMI『電信柱エレミの恋』ロードショー特設ページ


『オートマミー』では、親子の非情なまでのディスコミュニケーションが機械と子どもの悲しい関係性を通して表現され、最後に”捨てられたもの同志”の言葉にならないコミュニケーションの場面が挿入される。
「エレミの恋」では、人間と電信柱の間で一見活発に見えて実は「嘘」を前提としたコミュニケーションが続き、最後に”本当の出会いと別れ”が描かれる。
学生たちに課したのは、「二つの作品の相違点と共通点を挙げた上で、一貫するこだわりやテーマについて書け」というもの。


そのテイストからしても対照的に見える二作品の「相違点」を挙げるのは容易いが、「共通点」や「一貫するこだわりやテーマ」はやや難しかったようで、「人間と人工物(無機物)の関係性」を挙げる学生は多かったものの、コミュニケーションの問題を扱っているとはっきり書いたのは少数だった。
「人間と人工物(無機物)の関係性」は、コミュニケーションにまつわる問題を描くための設定であり、無機的な物に対する監督のフェティッシュなこだわりは感じられたとしても、それ自体がテーマではない。
その中で、ネグレクトされた子どもと電信柱の共通点に注目し、「話せないもの、意思を伝えられないものの物語」だという良い指摘もあった。



もう一つ共通するのは、個人の欲望と責任の問題。『オートマミー』の夫婦は、子育ては面倒だが優秀な子どもは欲しいという「欲望」に囚われ、自分たちで子どもを養育するという「責任」を放棄している。
「エレミの恋」のエレミも、人間のような自由と恋を手に入れたいという「欲望」に囚われ、電信柱としての「責任」に重圧を感じる。
つまりこれは、『ローマの休日』だ。「エレミの恋」を観て、あの名作を思い起こす人は少なくないと思う。


両者の類似点を挙げてみよう。
1. ヒロインは自由に憧れている。
  ・欧州各国を表敬訪問中のアン王女は、公務の連続にうんざりして宿舎から脱走する。
  ・エレミは夢の中で、自分を拘束する電線に引っ張られながら「光」に向かって歩き出そうとする。
2. ヒロインが何らかの機能不全状態にある時に、相手と出会う。
  ・睡眠導入剤のため路上で寝てしまったアン王女を、新聞記者ジョーがアパートに運ぶ。
  ・故障したエレミを、作業員タカハシが修理する。
3. ヒロインは自分の身分を隠している。
4. 二人は意気投合し、恋愛感情が芽生える。
5. ヒロインを案じ、連れ戻そうする人々がいる。
  ・アン王女の側近が情報部員を差し向け、ドタバタが繰り広げられる。
  ・電信柱たちが会議をし、エレミを糾弾したり諭したりする。
6. ヒロインは恋を諦め、社会的責任をまっとうする。
  ・ジョーと抱擁、キスをした後、アン王女は宿舎に戻る。
  ・エレミはタカハシに自分の正体を明かし、別れを告げる。
7. 最後にヒロインは本来の姿、身分で相手と対面し、二人が同じ思いでいることが暗に示される。
  (具体的に書くのは野暮なので控える)


アン王女が、公的なレスポンスを万感の思いを込めて返す場面に感動する人なら、最後のエレミのサインと、それに気づいたタカハシの「これ以外にない」と思える振る舞いに胸が震えるだろう。
楽しい会話の時間を共有し、心の慰めとなっていた相手との”本当の出会い”が、そのまま”別離”でもあるようなラストシーンは、深い余韻を残す。


異なる点は以下。
・『ローマの休日』は対面の関係、「エレミの恋」は電話だけの関係。
・ジョーは早々に相手の身分を知り仕事のために利用しようとするが、タカハシはエレミの告白まで知らない。
・アン王女の恋は誰にも知られないが、エレミの恋は仲間たちにバレている。


電信柱が人間に恋をし、電線を通じて会話するという設定は、本名や顔や身分を隠して相手とやりとりできるネット上のコミュニケーションも思わせるが、やはりクライマックスは、ヒロインが自分の立場と個人的な欲望の間で葛藤するところだ。
アン王女も恋に落ちて「王女なんかに生まれてなければ‥‥」と内心思っていたであろうところを、このアニメではエレミに「私はなぜ、電信柱なんかに生まれてしまったのでしょう」という、字面だけ見るとちょっと笑いたくなるような台詞を言わせている。それが、物語の中では実に重く悲しく響く。そして個人の夢や欲望と社会的な立場や責任は相容れないという、普遍的なテーマが浮び上がってくる。


『オートマミー』において映画は、親の欲望の醜さ、責任感の無さを子どもの悲劇として見せていた。「エレミの恋」では主人公の欲望に深い共感を示した上で、最終的に責任を選ばせる。欲望と責任の問題において、中田監督の倫理観は一貫している。
しかし、前者にあったコミュニケーションの断絶と絶望は、後者では、断絶を前提とした上で残されたほんの少しの可能性に変わっている。真面目だが地味な青年タカハシと、共同体の中で違和を覚えたエレミ。そうした孤独な者たちの間に通い合った密かなシンパシーを見つめる目が温かい。


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tico moonの音楽がすばらしい。