内側へ内側へ

ファイルの整理をしていたら、2004年に書いたメモが出てきた。ちょうどブログを始めた頃で、しばらく「女」について文章を書いていこうと思っていて、知り合ったばかりの編集者さんに「こんな感じのことを考えている」と説明するのに作った簡単なメモ。

「女」について


人それぞれでいいという価値観や生活スタイルの多様化した社会は同時に、各自のスタートラインと競争能力のみで結果が決まる厳しい社会。生活能力のない女の受け皿として機能した結婚の崩壊と、所得格差の拡大により、女の階級化も促進。


●女の階級化を促進する、「女ヂカラ」 (結婚力、経済力、容貌力)の身もふたもない肯定
 これに「教養力」が加わって階級闘争に。その闘いから降りている者として、「自然体」の女( それぞれのささやかな幸せに自足する)が増加
 →多様性や差異の追認→抑圧・苦痛→ファンタジーorナルシシズムに依存→「女」という病


●「女」を病むこと
表の面‥‥「清く・正しく・美しく」(真、善、美の三位一体)
     「正しく」は男の判断を仰ぐもの。現実には清さ(処女性)と美しさだけを求められる。
裏の面‥‥「清く・悲しく・美しく」(真、惨、美の三位一体)
      清く(純粋な欲望があり)、悲しく(それを諦めざるを得ない惨めな状況があり)、
      美しく(諦めたことを美化する)。


諦めたことを忘れ「清く・正しく・美しく」生きようとして破綻する。
「自然体」で生きようとして欲求不満に苦しむ。
「女ヂカラ」(による階級化)にかりそめの解決を求める。
そして時々、私の「純粋で真なる欲望」は何だった?と考える。


「女ヂカラ」(笑)は、その後流行った言葉で言うと「女子力」になるのかも。「女」に関して、なんか内側へ内側へというベクトルで考える癖は最初からだなと思った。*1
フェミニズムの意味づけと方向性を巡って、Twitterで揉めていたのを見た。対立していた「怒り」と「楽しさ」は、スタンスとしては同じように思えた。外側へ、外側へ。それは啓蒙、運動へ行き着く。というか、行き着いている。
私のは行き着く目的地がない。自分の足元を掘っているので。


あれから12年。時々サボりながらもだいぶん掘って、そろそろ女一人が寝られるくらいの穴ができてきた。
いつかそこに横たわる。穴に横たわった自分に、傍らの自分が土をかける。

*1:ちなみにこの時に頂いたwebのコラム枠のタイトルは、「男子にはなれない」という(今は当ブログに掲載)。