「村」に関わって弾かれた話

(※「はてな村」のことではありません)


ある展覧会で自分の展示状況に明らかな問題があったので、搬入を請け負った世話役の人に聞いたら、「問題はわかってたけど、みんなに気を使って言えなかった」と言われて驚いたという出来事のその後について。
私からの抗議と先日の記事が「みんな」に知らされたようで、その一人から、
「なぜ展示画像を送らせて改めて指示しなかったのかと、誰でも思うと思う」(この問題はあなたにも非がある)
「あれは自分にとってはプライベートな作品展。生存確認的なもの。みんなもそう思っているはず」(だからいちいち細かいことを言うな)*1
というメールが来た。つまり、私の怒りは不当という遠回しの非難だ。


先日書いたので繰返さないが、こういう展示のケースで、あそこまで”意外”なことをされ、それを放置されるかもしれないと想像するのは、難しい。
信用を裏切られたかたちになったから抗議し、誰かが「この作品の展示は本来はこうではなかった。コレがアレしてこうなってしまった」とアナウンスしてくれるわけではないので自分でしているのを、なぜ咎められるのかさっぱりわからなかったが、考えていてああそうかと思った。
そこは「村」だったのだ。


「村」では誰かの責任を問うと、必ず「みんな」が持ち出される。個人の意向は「みんな」の空気に簡単に覆される。
そして「村」では、何よりも”和”が尊ばれる。疑義を提出したり異論を唱えたり人の間違いを問いただしたりして、その”和”を乱す者は困り者。そこで、こういう物言いがよくされる。
「あなたにも問題がある。みんなもそう思っているはず」
「これはこういうものなのだ。みんなもそう思っているはず」


「みんな」はどうか知らないが、自分はこう思っていると言えばいいところを、勝手に「みんな」の代表となって、一人に圧をかける言表。
「そんなふうに考えるのはあなた一人だけ。だから、あなたがおかしい」という、「みんな」を頼んだ論理。
こうしたものがまかり通っていくようになると、場は見えないところから澱み、腐敗していく。でも、そこに留まっている人は何も感じない。自分=「みんな」だから。



改めて言うまでもないが、美術に関わる人はさまざまであり、関わり方も多様だ。だが今回の場合はそういう「美術村」ではなく、どちらかというと「女子村」だった。思えば私の一番苦手とするところだった。
うっかりそういう「村」に素で関わってしまったのだなぁと、今更ながらに反省した。*2


翻って、私も彼女たちから見れば、別の「村」の住人なのかもしれない。一体何にそんなに細かく拘っているのかわからない、別の「村」特有の論理で生きているように見えるのかもしれない。
それはどんな「村」なのだろう。いつも、自分の依って立つ場所の輪郭はよく見えないのだ。

*1:「プライベート」で「生存確認」が目的なら、わざわざ街のギャラリーを借りて行う必要はないのでは。誰かの家かアトリエでやればいい。DMを刷りギャラリーで発表している以上、不特定多数に開いている「公」な面を持つのは必定。「集まって楽しむことが大事なので、それ以外のことにそんなに神経質になる必要はない」と思っているなら、展覧会というものに対して根本的に感覚や考えが違うので対話は無理だと思う。‥‥という内容の返事を書いたら、即座に「これは全く理解し合えない事」だという返答が来た。

*2:「みんな」がキャッキャウフフと楽しんでいる場に途中から入ってきて、「遠慮のない指摘を」という言葉を真に受け、「みんな」が気に留めていない問題点をあれこれ挙げてその原因を探ろうとするような女は、場をしらけさせるので嫌われる。