過ぎていく

連載の告知以外で記事を書かずに、一ヶ月ほど過ぎてしまった。
前は一週間以上間が空くと「何か書きたい」という気分になっていたが、最近はそれがなくなってきた。そろそろ終わりだろうか。


以前より熱心にネットを見なくなり、お気に入りに上がってくる記事も、ほとんどタイトルを見るだけで過ぎていく。たまに読んで、「なんか書こうかな」と思った傍から、「このテーマでは前に書いたわ」と思い直し、それで過ぎていく。
日常は、外仕事(講義)、内仕事(原稿書き)、犬、親(双方の独り住まいの親の家事手伝い及び様子窺い)、内仕事、着物(お出かけ)、外仕事、犬、親、内仕事‥‥という感じで過ぎていく。
その中で「うわぁ」とか「やれやれ」とか思うことがたまにあり、思ったことを書いてみようかと思うが、その気持ちも大抵はすぐに消え失せて過ぎていく。
この何もかもが「過ぎていく」感じは、列車の車窓から外を眺めている時の感じに近い。


毎週、仕事で名古屋-京都間を往復する。新幹線の席は必ず窓際を予約。外を見るのが好きだから(子どもか)。
周囲を見ると、大抵はスマホタブレットやパソコンの画面を見ているか、本や週刊誌や書類と思しきものを読んでいるか、寝ているか、隣の人と喋っているかで、外を見ている人はほとんどない。たぶん退屈だから。
車窓に広がる田園風景、遠くの山々、工場、川、森と林、点在していた集落が大きくなって小さな街を通り過ぎると、また田園風景が広がっている。
そういう景色を眺めている時間が私は好きだ。正確には、退屈な風景が退屈なまま移り変わっていく様を、ぼんやり見ている時間が。


頭にさまざまな思念が浮び、まとまったかたちにならないうちに消えていく。風景が後へ後へ飛び去っていくのに似ている。
見るものも思念も自分でコントロールできない状態に、身を委ねる。この受動性の中にある諦めの混じった心地よさと一抹の無力感。
このように人生は過ぎていくのかと思ったりする。いや、こんなふうに無難には過ぎまいと思ったりもする。
降りるつもりのなかった駅で降り立ち、眺めるだけだった風景の中に足を踏み入れることは、この先まだあるだろうか。