ウンチに罪はない

多くの愛犬家がそうしているように、私も散歩の途中で犬のウンチを片付ける。
片付け方は人によって様々だろう。サッと犬のお尻の下にシートを敷いて、そのまま包んでウンチ用のビニール袋に入れる人。スコップか何かでウンチを掬い、袋へ入れる人。ビニール袋を手に嵌めてウンコを掴み、ひっくり返して口を縛る人。私は三番目だ。一番簡単。
薄いビニール袋を通して伝わる、ホカホカの愛犬のウンチのぬくもりが、何ともいとおしい。今日も元気でいいウンチをしたな、ああ生きているのだな、と思う。匂いは頂けないが、素手で掴めと命じられたらするかもしれない。


そういうことを実家の母に話したら、「子どもも同じよ」と言った。
「あなたがハイハイしてる頃ね、動き回るもんだからおむつがずれて、したばっかのウンチがコロンと出てきちゃったのを、素手で掴んで「あい!」って私に差し出したりしたのよ」。
ひええ。しかしそれは、母親へのプレゼントなのだよ、子どもにとっては。


ところで、今週初めに放映されたNHKの『介護殺人〜当事者たちの告白』で知ったエピソードが、いつまでも頭から離れない。
介護で一番大変な、一番厭な仕事は排泄の介助である。ヘルパーの講習のシミュレーションでやっただけだが、どれだけハードかはよくわかる。
そのエピソードによれば、独身で認知症の母を介護していた中高年の男性が、仕事との両立が難しくなり、無職の弟を呼び寄せて介護の分担を頼んだ。その弟が母を殺してしまう。


刑務所で服役する弟さんは、「協力してくれ」ではなく「助けてくれ」と言われてとても断れなかったと話す。
25年ぶりに実家に戻った弟。すっかり変わり果てている母。もうこれだけで、介護のハードルが三段階くらい上がる。
ある日、トイレから出てきた母が、信じられないほど大量の便が付着した手拭を自分に向かって差し出した時、殺意が彼を襲った。それは止めることができなかった。「母が、母の皮を被った化け物に見えました」。


犬のウンチをいとおしいなどと言っている自分が、少し能天気に思えた。
ウンチに罪はない。ウンチをする人にも(生きものにも)何ら罪はない。普通ではありえない異常事態の常態化、それを「家族だから」という理由で受け入れ、疲労とストレスが蓄積されても誰にも助けを求められないという状況が、悲劇を生む。そして行政サービスの窓口があるとは言っても、今のところ、こうしたことを解決するのは、究極的にはお金だけなのだ。
私がその弟さんの立場だったら、いや、長年母親と暮らしてきた兄さんの立場でも、瞬間的に殺意が湧かないという保障はないと思った。