高畑淳子、そして母が息子に足を掬われること

女優・高畑淳子の息子で俳優の高畑裕太の起こした強姦致傷事件に関して、「親の責任はどこまで問われるのか」という話が連日メディアに出ている。
私には子どもがいないので、年頃の子どものいる友人たちに聞いてみると、異口同音に「22で世間では大人だと言っても、母親から見ればまだ子ども」「自分に1ミリも責任がないとは、やっぱり思えない」「育て方にどこか落ち度があったのかと悩む」と言っていた。


「加害者、加害者の家族はぞれぞれ独立した個人であり、性犯罪に関して家族の影響は薄く、世間からの攻撃、排除に遭う加害者の家族はケアされるべき」という考え方が欧米にあるらしい(高畑淳子さんを責めても何も解決しない 性犯罪の加害者家族が直面する社会の圧力 -東洋経済オンライン)。
それはそうだとしても、親子の間に何の影響関係もないと考えるのも難しい。特に、親子の関係が密接だったり、似た者親子だったりした場合は。
「良い影響」を与えている(教育している)と親が思っていても、それが思いがけず「悪い影響」として現れることはざらにある。長所と見られていたところが、本人の不安定さのせいで突然短所にひっくり返ることもある。それが性犯罪として現れないと断言することはできない。


だから高畑淳子に責任がある、とか言いたいのではない。責任を取るのは本人しかいない。それでも、たとえ誰にも糾弾されなくても親が自責の念に駆られるとしたら、親子の間に影響関係があることを、よく知っているからではないかと思う。
高畑淳子はどう思っているか知らないけれど、「私の責任」という言葉がもし本心ならそうなのだろう。



この事件で私がすぐに思い浮かべたのは、映画『少年は残酷な弓を射る』(リン・ラムジー監督、2011)である。息子の犯した重大犯罪のせいで家族も仕事も地位も名声も失う女性を、ティルダ・スウィントンが演じている。
「母になるってのは、なんという危険な賭けなんだ‥‥」というのが、この映画を観た時の最初の感想だった。


ここで描かれる親子関係、母親と息子のキャラクター、それぞれの年齢、犯罪の種類は、今回の事件とはまったく異なる。
特に二人の関係性は真逆(映画では母は息子から逃れたがっているが、現実ではその反対)と言っていいだろうし、高畑裕太は人懐っこいがちょっと危なっかしさを感じさせる青年だったようだが、この物語でエズラ・ミラーの演じる少年ケヴィンはほぼサイコパスとして描かれている。
それでもこの映画が浮かんだのは、
1. 規範に従えない息子の教育に母が苦労する 
2. 仕事で成功した母が息子に突然足を掬われる 
3. 母と息子にはどこか似通ったところがある 
という三点が、この件と重なるように思えたからだ。


下に、以前書いたレビューの一部を掲載。

(前略)
 実に、救いようのない悪夢が描かれている。表面的に物語を追えば、出産でキャリアを手放したことへの後悔が尾を引いて子どもを愛することのできなかった母親が、それを察知した子どもに復讐される悲劇だ。もちろん母親を断罪する内容ではなく、むしろ「女には生まれつき母性が備わっている」「自分の子供を無条件に愛するのが母親だ」といったいわゆる母性神話に対し、疑問を提示するものとなっている。
 が、重大な少年犯罪の「加害者の母」というスティグマを世間から押された女性の苦しみを訴えている作品、とも言い難い。そうした問題系に収束させるには、はみ出すものが多過ぎる。


 ケヴィンの示し続けた一連の母への悪意、嫌がらせ行動は、愛情を求める心理の裏返しであることは間違いないだろう。「ママは僕のことが好きじゃない」と察知し、母のどんな努力も献身も、心からの無条件の愛ではなく義務感を伴った“偽り”のものだと見て取るがために、ことごとく破壊せずにはいられない。
 そういう息子に対しエヴァも、思わずムキになって対抗的な態度を取ったり、皮肉な物言いをする場面がある。相手が子どもということを忘れて、まるで対等に張り合うように。つまりこの母子は、よく似ているのだ。
 エヴァは頭が良く、受胎の瞬間がわかるほど鋭敏で、愚鈍で俗悪な人々には手厳しく、かつては世界中を飛び回る行動力と好奇心をもっていた。虚飾を軽蔑し、世間的な規範に縛られず、すべてを自分の目で見、自分の嗅覚だけを信頼して生きてきた個性的な女性だ。


 ケヴィンはそれをそっくり受け継いでいる。興味のあることにはすばらしい集中力を見せ、感受性が強く頭の回転も早い。エヴァが女の子を産んだ時、新しい妹に慣れるようにと諭された七歳頃の彼は、「慣れるのと好きなのとは違う。ママもそうでしょう?」と返す。ある意味、母のことを誰よりよく理解していると言える。
 たまには思春期の息子と二人の時間を作らねばと一緒に行ったパターゴルフの受付で、太った客を見かけたエヴァは「デブはいつも何か食べてる」などと吐き捨てるように漏らす。「時々キツいね」とケヴィン。「自分だって」「確かにそうだ。誰に似たんだろう」。ここでのケヴィンはなんとなく嬉しそうだ。
 しかしその後のレストランのシーンでは、母親らしい態度を取ろうとするエヴァの出ばなを挫き、徹底的に冷笑する態度に出る。「母親らしさ」をエヴァの欺瞞と見抜き、その仮面をむしり取ってしまうケヴィンの残酷な微笑みは、「なに気取ってるの? あなたは僕と同類のはずでしょう?」と言っているかのようだ。
 そもそも冒頭近くで、エヴァが洗面器の水に顔を浸けると、その顔がいつのまにかケヴィンにすり替わるシーンが挿入されている。エヴァ=ケヴィンなのだ。


 ケヴィンが父と妹を殺したのは、直接的にはエヴァと引き離されることを阻止するためだった。が、それ以上に、彼から見てこの二人が“偽り”の家族の幸福を体現するものだったからだ。表向きは母に反抗的で父に懐いていたが、内心は自分と同類の特別な存在である母(書店のウィンドウに「Legendary Adventurer(伝説の冒険家)」と銘打って大きく掲げられたエヴァの顔写真を見上げているカットがある)に執着し、優しいが凡庸な家庭人である父を軽蔑していたはずだ。
 当然、学校もケヴィンにとってはくだらぬ教化と規範と慣れ合いに満ちた場の一つであるから、それを破壊するためにクラスメートたちを無差別殺傷した。そうやって「自分の力」を見せつけることで母に最大限のアピールができる、母の中に自分をこれ以上はなく深い痕跡として刻みつけることができる‥‥‥というのが、彼の幼い目論見だ。
 体育館での殺戮シーンで矢に倒れる犠牲者たちの姿が一人も見えないのは、すべてがエヴァ視点(目撃していない場面はエヴァの想像)で描かれているためだが、ここに込められた意味はそれだけではない。弓を引いているケヴィンが真に的にしているのは、クラスメートではなくエヴァの心臓である。彼は父と父に連なる規範を殺し、母のハートを射抜き、彼女を永遠に自分のものにしようとしたのだ。
(略)


 うっかり妊娠して産んだ子どもが、エヴァにとって生涯の「躓きの石」となった。聖書に登場する「躓きの石」とは、実は真実に至る重要なきっかけだが、本人にとっては当初、足元を掬う邪魔な「異物」でしかない。しかし排除も馴致もできないそれが、自分とそっくりの顔をしていたとしたら? エヴァにとってケヴィンこそ、心の暗部を映し出す鏡だったのではないか。
 「異物」は、「母らしく(相手は子どもらしく)あらねばならない」という規範で自縄自縛の自分に、「そんなことはいくら努力しても無理だ」と囁き続ける。「もう好きなところへ旅に出られない」と悔やむ自分に、「今しているのが本当の旅だ」と囁き続ける。外の広い世界ではなく、家庭という親密圏こそが、驚きと危険に満ちた過酷な冒険の場なのである。
(後略)

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』より◆「異物」と向き合う女/『少年は残酷な弓を射る』p.73〜77)


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