トーク:ダブルヒロインの「距離」 - 前半の記録

去る17日に、静岡市オルタナティヴスペース「スノドカフェ七間町」で行ったトークイベント「ダブルヒロインの「距離」」の、私の喋りの記録です。
当日録音はしていませんでしたが*1、家で原稿を作成し、時間内に話しきれるかどうか何度かリハーサルをしていたので、その時に取った音声データと原稿を元に書き起こしました。
時間は前半約45分、10分の休憩を挟んで、後半50分程度。長いのでこの記事では前半のみ。後半は明日以降にアップします。


◆チラシ文面

近年、従来のヒロイン物語に替わってよく見られる「ダブルヒロインの物語」。私たちがダブルヒロインに惹きつけられるのはなぜでしょうか。女の友情が美しく描かれているから? 二人のどちらかに必ず感情移入できるから? 恋愛成就で一件落着‥‥にはもう飽きているから? まだまだ隠された理由がありそうです。映画やドラマに登場したダブルヒロイン物語の二つの系譜、その「距離」を通して、女性同士の関係性について考えます。

前半のトーク

昨年暮れ、企画者の古池さんから、アートまたはジェンダー精神分析を絡めたあたりで何か話して下さいという依頼を受けた時、ちょうど年明けからサイゾーウーマンというサイトで、映画の中の女性同士の関係性についての連載コラムが始まることになっていました。
もう一つ、やはり暮れに上梓した映画レビュー&エッセイ集『あなたたちはあちら、わたしはこちら』を読んだ私の先輩的な立場の研究者の方から、「一人のヒロインについてはよく書けてるけど、女同士の関係性についてはどうですか?」という問いを頂いていました。
それで、今回ダブルヒロインをテーマにしてみようとなったわけです。ですので、この内容でお話するのは今日が初めてです。


まず話の叩き台として、ダブルヒロインの二つの系譜を示してみました。
(資料プリント)

ダブルヒロイン物語の二つの系譜
  a. 男性主人公の相手となる女性が二人存在する
   =所有型男性原理
  b. 女性同士の関係性に重点が置かれ、男性は副次的存在
   =関係型女性原理


一つはa、男性にとっては一見おいしく思える設定。両手に花の三角関係。伝統的なパターンです。
主人公の男はその二人の女の間を行ったり来たりする。なかなかどちらかに決められない。本当は二人と付き合いたい。二人とも自分のものにできたらどんなにいいか。‥‥実際にそんな台詞を言うわけではないですが、無意識ではそう思ってる。そして、それを見る視聴者も、どっちの女がいいか、自分ならどっちを取るかと考える。男性主人公の目線は作り手の目線であり、観客もそれを共有するという仕組みになっています。
そういうダブルヒロインものを支配している原理を、「所有型男性原理」と仮に呼びます。私はライトノベルを読まないのですが、最近のラノベにもちょくちょく見られる設定らしいです。ヒロインが3人以上になるのは「ハーレムもの」と言うそうです。


もう一つのダブルヒロインはb、女性同士の関係性を主題にしたものです。男性はいても中心的存在ではありません。一見男性が関与しているように見えても、その目の届かないところ、力の及ばないところで、女同士の関係性が構築されたりします。
アナと雪の女王」はそれを非常にはっきりと表現しましたし、最近目につくダブルヒロインものも、こちらの系列が多いと思います。そこにあるのを、「関係型女性原理」としました。


この所有型、関係型という言葉は、精神科医で評論家の斎藤環さんの議論に依拠しています。もともとは、「おたくはキャラ萌え、腐女子は位相萌え」というフレーズから来ていまして、それを性愛における男女のジェンダーに敷衍して、「男性の欲望は所有原理に基づき、女性の欲望は関係性を志向する」というテーゼに展開されていました。
こういう「男性は」「女性は」ということを言うと「主語が大きい」という批判があるわけですが、精神分析理論では「男性とは何か」「男性であるか否か」というところからまず話が始まるんですね。なので、ここでもとりあえず仮説として聞いておいて下さい。


で、なぜ関係型のダブルヒロインものが目につき、また人気が出ているのかについては、実は私も確たる答えをもってはいません。社会学者であれば晩婚化傾向と結びつけて何か論じるかもしれませんが、そうではなくて、この所有型と関係型は、一つの事実を二通りの言い方で表しているのでは?というふうに考えてみたいと思います。
ここで参照したいのが、異性愛者とは、男女を問わず、女を愛するものである」というジャック・ラカンの言葉です。一瞬、何のこと?と思いますね。後でまた出しますが、これがキー概念になると思いますので、頭の片隅に留めておいて下さい。


では前半は、主に映画とドラマのダブルヒロインものを、画像でざーっとお見せしていきたいと思います。資料でも紹介順に作品を並べています。33作品と絞ってますが、あの有名な作品がないよ!と思われた方は後で教えて下さい。



最初は、近年のダブルヒロインもの
◆「アナと雪の女王」(アリス・バック、ジェニファー・リー、2013) 
もう言わずと知れた‥‥です。アンデルセンの「雪の女王」の中の、雪の女王と彼女に攫われる少年の二つのキャラをドッキングさせたのが、エルサ。攻撃性と傷つきやすさを兼ね備えた見事なキャラ造形でした。エルサは苦しみを抱えていて共同体で孤立し、あるいはそこから自らを疎外した上で、最後に再び元の共同体に帰還します。そういう物語になっている。もう一方のアナの物語は、一言で言えば「王子様なんかいらない」です。
◆「スノーホワイト/氷の王国」(セドリック・ニコラス=トロイアン、 2016) 
2012年に「スノーホワイト」という映画に出ていた魔女が、ここではその妹に蘇らされて再登場します。この妹は、エルサを参照しているなと思わせるキャラです。作品は、アナ雪の姉妹を邪悪にして、雪と氷のバトル場面を思い切り大袈裟に見せたみたいな、あまり出来のよくないものですが、最近のファンタジー映画は、童話の中で悪役だった女、つまり「もう一人の女」に焦点を当てるという手法がしばしばあるんですね。「マレフィセント」もそうでした。そういう現象も、ダブルヒロイン流行の一つと言えるのではないかということで挙げてみました。次は朝ドラ行きます。
◆「あまちゃん」(NHK連続テレビ小説、2013) 
主人公はアキですが、アキの母でかつてアイドルを目指した春子の物語が重なっていて、春子とアキ、そしてアキと同級生のユイという、ダブル・ダブルヒロインものになってました。
◆「花子とアン」(NHK連続テレビ小説、2014) 
主人公のはなより、この蓮子さんのほうが存在感があって印象に残ったという人は多かったようです。女優さんの演技力のせいも若干はあるかもしれませんが。
◆「あさが来た」(NHK連続テレビ小説、2015) 
このドラマ、私は宮崎あおい演じる姉のはつがどうなるのか、気になってしかたなかったです。二人の成長物語として見ていました。
◆「思い出のマーニー」(米林宏昌、2014) 
ジブリのちょっと地味な作品であまりヒットしてなかった感じですが、孤独な一人の少女が心を次第に解放させていく物語。相手のマーニーってのは幻影なんですね。私は、「一番多感な時期の少女の中に生まれる同性への恋愛感情」を描いたものとしても捉えられるのではないかと思って見てました。



次は、「所有型男性原理」に基づいていると思われる作品を、少し昔のものからいくつか。
「みゆき」あだち充、1980~1984) 
この漫画、ご存知の方いらっしゃるでしょうか。主人公の憧れの女性がみゆきといいます。その後登場する腹違いの妹もみゆきという。二人のみゆきの間で悩む男の話です。もう典型的な男性のファンタジー。アニメ、実写映画になってます。
◆「うる星やつら」(高橋留美子、1978~1987) 
高橋留美子の大ヒット作。SF設定ですね。諸星あたるというちょっとだらしない男の子が結婚したいと思っているのがクラスの美少女しのぶ、しかし空から降ってきた鬼族の女の子ラムがあたるを追い回すようになり、ドタバタが繰り広げられます。70年代後半は、少年漫画誌がこうしたラブコメを載せ始めた時期でした。テレビアニメ、劇場アニメになってます。
◆「新世紀エヴァンゲリオン」(庵野秀明、1995~1996) 
90年代を代表するアニメ。エヴァっていうと、大抵この三人がセットです。シンジはエディプスコンプレックスを抱えた少年として登場してます。綾波レイは、シンジの亡くなっている母の幻影を背負わされた存在、アスカは母性からもっとも遠い女。その間でシンジは揉まれます。別に三角関係ものではないのですが、こっちのパチスロエヴァの画面(シンジが花嫁姿の二人に両方から引っ張られて困っている)をご覧下さい。レイかアスカか。シンジに自分を投影する視聴者の頭の中身を、そのまま表しています。
◆「もののけ姫」(宮崎駿、1997) 
これを所有型にするのに疑問がある方もいるかと思いますが、この話は煎じ詰めれば、アシタカという少年、これは監督の分身であり視聴者代表でもあります‥‥が、エボシという大人の女とサンという少女の間を行ったり来たりする話なんです。本当に何度も行ったり来たりしてます。お前はいったいどっちなんだと言いたいです。「風の谷のナウシカ」では、アスベルはそういう行き来はしません。でも見る側からすると「ナウシカクシャナ、どっちが好き?」という問いは常にありました。つまりそれは、作り手の宮崎駿の中にある迷いでもあるんですね。
◆「猫と庄三と二人のをんな」(豊田四郎、1956) 
谷崎潤一郎原作です。元妻と現在の妻が派手な喧嘩をしてる横で、森繁久彌が縮こまってます。でもこの庄三が一番愛しているのは猫なんですね。その猫が発端で二人の女の諍いが起きて、無理矢理三角関係に巻き込まれる、肝心の猫はすぐにどっか行ってしまうという話なので、実は女への男の所有欲というモチーフは薄いです。ただ、この喧嘩している女性の顔が、なんかすごく楽しそうなんで出してみました。享楽に耽っている顔ですよね。トムとジェリーなんですねこの二人は。最後に洋画から一本。
◆「恋のエチュード」(フランソワ・トリュフォー、1971)
トリュフォーは三角関係物語をいくつか撮っていますが、これはフランス人の男が、二人のイギリス人の姉妹の間で延々と悩み続ける話です。あっちとくっつきこっちと別れ‥‥それが15年にも渡って、最後に男は一人になる。
こうして見て来ると、「所有」とは男性の欲望ではありますが、実際は男性主人公は皆女性に振り回され、頼りなく描かれているケースが多いですね。



では、女性同士の関係性に重点を置いたダブルヒロインもの行きましょう。と言ってもいろいろありますので、4つに分類しました。便宜的な分類ですので、重なり合っている部分はかなりあると思います。まず、姉妹、疑似姉妹もの。
◆「何がジェーンに起ったか?」(ロバート・アルドリッチ、1962) 
スリラーですが、その枠に収まらない傑作です。初老にさしかかった姉妹の間の嫉妬、怨念、復讐心をこれでもかってほどえぐってます。このベティ・デイヴィスが鬼気迫る感じで、狂気に至る妹を演じていてものすごく恐いです。未見の方には是非おすすめしたいです。
◆「八月の鯨」(リンゼイ・アンダースン、1987)
そのベティ・デイヴィスが、80近くなって再び姉妹ものに出ました。手前の横顔の人ですね。目が不自由でちょっと我が侭で辛辣なことを言ってトラブる妹をやっています。まああのベティ・デイヴィスなのでそういう役回り。奥は、この時90歳を超えていたリリアン・ギッシュです。ハリウッドの映画史を背負ってきたような二大女優の共演ということで、話題になりました。
◆「イン・ハー・シューズ」(カーティス・ハンソン、2005)
堅物な姉と奔放な妹。って、見ればわかりますね。あることから姉妹の仲は決裂します。で、互いに距離を置く間にいろいろあって成長し、最後に再会して‥‥という。まだ若いのでやり直しができるところがいいですね。さっきの「何がジェーンに起ったか?」ではもうやり直そうにもやり直せない年齢で、それで悲劇が起るわけです。次、日本映画行きます。
◆「祇園の姉妹」(溝口健二、1936)
ぎおんのきょうだいと読みます。他の姉妹ものと同じく対照性が際立っています。二人とも芸者で姉は古風、妹は現代的。右の山田五十鈴が演じている妹のキャラクターが凄いです。男は金や、男を騙し男に集って生きていって何が悪いんや!という態度をまったく隠さない女ですが、最後は彼女の血を吐くような叫びで終わります。続いて同じ溝口監督の、
「祇園囃子」溝口健二、1953)
これは実の姉妹ではないですね、疑似姉妹。新米の舞妓、若尾文子ですね‥‥の失態の責任をとらねばならない姉貴分の芸者が、どんどん窮地に追い込まれていく話です。さっきの作品もそうですが、男の世界に寄生せねば生きていけない立場の女の惨めさというものを、非常に冷徹な目で見据えた作品です。
◆「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(吉田大八、2007)
傑作です。佐藤江梨子が演じるのが、とんでもなく自己中で自意識過剰な女優志望の姉。こっちは、それをずっと観察して密かにマンガに描いている地味な妹。後半凄まじい対決がありますが、安易な和解にもっていってないところが優れていると思います。



ここからは、姉妹ではないライバルあるいは敵同士として描かれたダブルヒロインものを。
◆「イヴの総て」(ジョセフ・L・マンキーウィッツ、1950)
また出ましたベティ・デイヴィス。ベテランの舞台女優が目をかけてやった新進の若い女優、彼女がベテランを出し抜いてスターダムに上っていく。たくさんリメイクされてますね。このDVDのパッケージを見て、どちらがヒロイン比重が大きいと思いますか?どっちとも言えないという感じですよね。物語は両者を同様に突き放したメタ視点で語られます。
◆「ベスト・フレンズ・ウェディング」(P・J・ホーガン、1997)
これはご覧になっている方多いのではないでしょうか。三角関係ではあるのですが、男性の心理より二人の女性の関係性に重心が置かれているので、ここに入れました。みっともない女を演じるジュリア・ロバーツがすばらしいです。では日本映画行ってみましょう。
◆「妻として女として」(成瀬巳喜男、1961)
これも画像では明らかに三角関係に見えますが、この森雅之演じる真ん中の男が誰も感情移入できないような、しょうもない奴なのです。正妻と妾がいて、どちらも切ることができず、のらりくらりと関係を続けます。やはり重点が置かれているのはこの女二人で、次第に対立が深まっていき、家族を巻き込んだ話になっていく。で、最後に正妻が欲しいものを手にいれてはいますが、でもどっちが勝ちでどっちが負けということはないよなという印象で終わります。
◆「疑惑」(野村芳太郎、1982)
松本清張原作ですが、映画では主人公を二人とも女性にして成功しています。夫殺人の容疑者が桃井かおり。この人は札付きの女で誰も弁護を引き受けず、国選弁護人として登場するのが岩下志麻。二人で共闘して裁判を勝ち抜かねばならないのですが、女としては互いのことが大嫌いなんですね。日本映画で女同士の対立っていうと、水面下のドロドロした陰湿な足の引っ張り合いか、ギャーギャー喚いてつかみ合いの喧嘩になるかのどっちかが多い気がするのですが、これはどっちでもないところが私は好きです。



では次、友情を描いたダブルヒロインものです。洋画から行きます。
◆「ジュリア」(リチャード・ロス、1977)
これ、公開当時は女性映画として宣伝されてとても話題になっていました。リリアン・ヘルマンの小説が原作です。リリアンの幼なじみのジュリアは、第二次大戦下に反ナチレジスタンス運動に身を投じます。で、リリアンにある重要なミッションを依頼し、彼女は親友のために危険を冒してそれを遂行する。
◆「テルマ&ルイーズ」(リドリー・スコット、1991)
女性二人のロードムービー。楽しいドライブ旅行の途中で事件が起きて警察に追われる身になり、衝撃的な結末を迎えます。「ジュリア」でもこの作品でも、女性を見守る男性が描かれていて、その立ち位置がとてもいいんですね。男の人はこうあってほしいというお手本みたいです。
◆「乙女の祈り」(ピーター・ジャクソン、1994)
実際の事件が元になっているオーストリア映画です。ある年齢の少女の間には、他人には決して理解できないような異様に緊密な結び付きが生まれる。それがよく描かれていると思います。
◆「下妻物語」(中島哲也、2004)
嶽本野ばらの原作。これも見るからに対照的な二人ですが、それがベタベタしない、まるで不器用な少年の友情というか仁義を通す物語として描かれているところが面白いです。
◆「NANA」(大谷健太郎、2005)
漫画のヒットで映画化されたものですね。名前は同じだけど対照的な外見、キャラクターの二人。宮崎あおいの方はフワフワ〜とした女の子、中島美嘉はイケメンです。ほのかに百合の香りがします。友情と愛の境目はないんです。
NANA」、「下妻物語」、それから「花とアリス」という二人の女子高生を描いた岩井俊二監督作品があるのですが、どれも2004〜5年のものなんですね。当時、冬ソナとかセカ中とか電車男とかが出てきて純愛ブームだったんですが、男女の愛ではない女性同士の真剣な感情のやりとりを描いた作品を求める気持ちは、この頃既にあったんだと思います。



ということで、最後、女性間の愛を描いた比較的最近の作品を見ていきます。
◆「バウンド」(ウォシャウスキー兄弟、1996)
レズビアンの泥棒とマフィアの情婦が出会って恋仲になる。この作品はフィルムノワール風のタッチというところがポイントなので、このカップルもどっちが男役でどっちか女役か見た目からわかりやすく、まあ少し類型的な描き方にはなってますが、二人の女が恐い男達を敵に回し、知恵で出し抜いていくところがハラハラさせるし痛快です。そして男達は、最後までこの二人の関係性を知らないのです。
◆「モンスター」(パティ・ジェンキンス、2003)
実話が元になってます。シャーリーズ・セロンが外見をガラリと変えて驚かせました。底辺のセックスワーカーの女性が家出した同性愛者の少女と出会い、お金のために犯罪に手を染めて抜き差しならなくなっていく。このアイリーンにとって、男たちは全員敵なんですね。見ていて胸が痛くなります。
◆「アデル、ブルーは熱い色」(アブデラティフ・ケシシュ、2013)
セックスシーンが話題になりましたが、レズビアン映画という枠を超えて優れた青春恋愛映画だと思います。運命的な出会いがあり、互いにどんどん惹かれ合って、やがて高揚期があり、不安が襲ってきて、ささいなことで傷ついて終わる、という過程。もう私から見ると、眩しいような感じです。主にレア・セドゥじゃないほうの子、この女優さんがすごくいい‥‥の視点ですね。ちょっとドキュメンタリータッチです。
◆「キャロル」(トッド・ヘインズ、2015)
純然たる恋愛映画でした。カメラワークも色彩も素晴らしかったです。希望のもてるかたちで終わるところもよかったですね。次は日本映画を一本。
◆「小さいおうち」(山田洋次、2014)
原作より空間的にかなりスケールダウンしているのが残念なのですが、戦前の山の手の奥さん、この人は若い男性と不倫関係になります、それを心配して見守る女中の間に芽生える感情は、やはり友情ではなく愛と呼びたい種類のものです。作品としては、それを丁寧に描いている点のみ評価しています。最後は韓国映画
◆「私の少女」(チョン・ジュリ、2015)
この数年で一押しの作品です。ペ・ドゥナの方はレズビアンであることを隠している警官。普段家で虐待を受けている少女が、彼女を慕って近づいてきます。年齢差があり権力関係があり、いろいろと危険な要素を孕んだ二人の関係性を、非常にデリケートに真摯に見つめた、挑戦的で奥行きの深い作品だと思います。



駆け足で見て来てきましたが、一旦まとめます。
所有型男性原理のダブルヒロインものは、「謎としての女」をわかりやすく表していました。簡単にどちらかを選ぶことができない、それは男にとって女の像が一つに焦点を結ばず分裂してしまう、女がつかみどころのない謎であることを示しています。
謎って言うと神秘的な雰囲気がありますが、もっとわけのわからない、全体の把握できない、尚かつ異物のようなイメージです。精神分析理論では、女は「男ではない」「すべてではない」という消極的な言い方でしか示されません。女を「こうだ」と明示するような言葉はないんですね。


関係型女性原理のダブルヒロインものにおいても、一方から見て相手の中にあるのはやはり謎です。女にとっても女は(自分を含めて)、男以上によくわからないからです。「女はみな女を仮装している」という言い方を私はしますが、その仮装を取っていったところには何もありません。女の実体とか本質と言えるようなはっきりしたものは、そもそもないんです。それを女性自身も知っている。だからこそ女性は、女性同士の関係性の方に惹かれるのだと思います。
その中で、男性とは異なる種類の闘争や友愛が生まれる。それは所有原理に支配されるタイプの男性からしてみたら、たぶんうまく想像できない話なのではないかと思います。


異性愛者とは、男女を問わず、女を愛するものである」というフレーズがありました。それを言い換えれば、「異性愛者とは、男女を問わず、わけのわからない把握し難い異物、異なる者を愛する人」です。
というわけで、女が男をさしおいて女を愛し救おうとする「アナ雪」は、多くの男性にとってはどこか釈然としないところの残る話だったかもしれませんが、女性にとっては究極の「異性愛物語」だったのです。


トーク後半に続く


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*1:追記:企画者から「録音してたよ」というメールが後であった。音源送って頂く予定(ただこの書き起こしと90%くらい一致しているという自信はある。何度もリハしてるうち、ほとんど覚えちゃったので)。