最近話題になっていた、セクシュアルマイノリティへの施策をめぐる千葉市長の一連のTweet(わかりやすくするため番号を振った)
1
先ほど定例記者会見で、性別が同一である者とパートナーシップを形成している職員が介護休暇や、結婚休暇に相当するパートナー休暇を取得できる制度を発表。
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月10日
既に事実婚でも休暇の取得が可能なもので、性的多様性に配慮できる項目と判断しました。事実婚で許容されている分野・趣旨を今後も精査します
2
性的多様性の話でよく少子化の話をする人が居るのですが、では子供が出来ない年齢での異性婚も認めないということなのでしょうか?今でも性同一性障害の方は性別が変更できるのですが、それに反対しましたか?そもそも多様性を認めなければLGBT等で苦しんでいる方は異性婚に行くと思いますか? https://t.co/SSHNfhA9KX
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月11日
3
性的多様性についてもっともらしい理屈(多くは整合性が取れていません)を用いるのではなく、単純に「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」と言えば良いと思いますし、それは別に責められるべきものではありません。
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月11日
4
性的多様性への配慮=同性婚を認めることではありません。それは国民的議論を長い時間をかけて行い、政府が決めるべきものです。異性婚と同じ権利とまではいかなくとも、千葉市が今回実施する労働環境の改善等、同性婚を認められない方も含め社会全体に利益があり、不利益が少ない項目は改善すべきです
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月11日
5
私はそんな発言が無くなる社会を望む側ですが、多くの日本人にとって性的多様性の議論は始まったばかりです。社会・人はそんなに急激には変われません。特に愛という最も根源的な感情に関するものであれば尚更です。今の時点で嫌悪感の表明すら認めないのでは、却って相互理解を阻害すると私は考えます https://t.co/wkdpyVP5Lj
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月11日
6
多くのご意見ありがとうございます。性的多様性を話し合う際に、嫌悪感を抱く方の意見を抑制せず、その上で課題を抱える方への理解と権利擁護を促す必要があるという趣旨でしたが、当事者に攻撃的に向けられることを認めるかのように受け取られた方も居ることから、誤解を招く表現であったと反省します
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月12日
昨夜は5のtweetにはてなブックマークがたくさんついていて、私も最初にそれを読んだ。現状認識はほぼ同意だが、最後の一文がセクシュアルマイノリティに向かって「嫌悪感の表明」をしても良いと言っているように受け取れたので、最初かなり批判的なブコメをつけた。
しかし、後でその前のtweetを読み、セクマイへの偏見や差別を払拭できない人々に対しどう説得的に対応するかで苦慮している風だったり、「行き過ぎたポリコレ」への不満を抱く人々の感情にも寄り添わねばと配慮している感じなど、あちこちに気を使ったあまり説明不足の表現になったみたいだと思い、少し穏健なブコメに書き換えた。6のtweetを読んだのは今朝。さすがに対応が早い(けど、両立しないことを両立させているように見えるので違和感は残る)。
3のtweetも、『セクマイの人々に対して「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」というのは、多くの異性愛者にとってはごく普通のことで、それ自体は責められるべきことではない。セクマイの権利を守る施策に反対する人は、まずそういう感覚、感情が自分の中にあると認めよう。そこを無視して、「同性同士の結婚は子どもが作れないからダメ」「少子化を促進する」「家族の形が壊れてしまう」といった非論理的な批判をしても議論にならない』という意味だろう。
要は、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」という指摘だ(それを柔らかめに、該当者の感情を慮りながら言っている)。*1
大体その通りだと思うが、一方で私は別のことも感じた。
もしセクマイの権利を守る施策に反対する人々が、自分の中の嫌悪感を自覚していて、その上で、というかだからこそ「嫌悪感の表明」をするのはマズいと思っていたらどうだろう。
(「気持ちが整理できない」はまだしも)「生理的にダメ」などと言っては直接セクマイの人々を逆撫でするだろうし、議論の俎上にも上げてもらえない。だからそこは隠して理屈で反対しよう、という”配慮”が彼らの中にあったとしたら? そういう人はいると思う。
そこに、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」と冷静なツッコミを入れ、そのなけなしの”配慮”もなかったことにして「感情に素直に」に一気に行っちゃうというのは‥‥どうなんだろうか?というのが少しある。
人の感覚や感情は、理屈では制御できない。だが一方で人は社会的な動物である以上、建前というものを作る。表に出しづらい本音を建前で包んでコミュニケーションすることで、互いに不要にぶつかり合って疲弊しないように配慮する。
どうしても「嫌だ」ということを言いたい場合は、その感情が必然であり一定の人々が精神的損害を被るばかりではなく、社会的に悪影響を及ぼす可能性があることなど、きちんと理屈をつけて正当性を主張する。その理屈でより多くの人を、「なるほど確かにそうだ」「そうしたほうが社会的に利があるな」と思わせたほうが勝ち。
もっともすぐさま、「それだとこっちの立場はどうなる?」という文句や批判が来て議論が振り出しに‥‥という可能性はあるが、一応かたちとしては理屈で勝負ということになっている。その手続きを全部すっとばして、「とにかくお前らが気に入らないだけだ」と言ってしまったら終わりだ。あのトランプだって、傍から見れば「それ、個人的に気にいらないだけじゃないか?」と思えることにも、一応理屈はつけている。社会を作り変えていく政治、政策を前提にして考えれば、そう振る舞うしかない。
そこからすると、「下手な建前(理屈)は崩れてるんだから、本音(感情)出せば?」は真逆である。
もちろん千葉市長が、人々の嫌悪感情を頭ごなしに否定しない(それだと逆効果)という作戦を取っているのはわかる。が、普通なら、「人間は感情でできているが社会は理屈で作らねばならないので、セクマイの権利を守る施策に反対する人々は、単なる嫌悪感情ではなく、問題点について説得的な論理を展開してみせてほしい。政策はあくまで理屈で議論しよう」と言うところだ。
ヘイトスピーチをやんわり封じた上で、理屈勝負に持っていって勝つ。それを辛抱強く繰返して、徐々にコンセンサスを得ていく。
問題は、そういう「普通の正統派の言い方」ではもう先に進めない、感情的に反発する人々を包摂できない、むしろ「普通の正統派の言い方」をすればするほど壁に頭を打ちつける、だけでなく、事態を良くないほうに引っ張っていくことになりかねない‥‥ということなのだろう。
かといって、思い切った言い方をすれば、「逆張り」だとか「ガス抜き」だとか誹られる。いろいろ気を遣いどうとでも取れる言い方をすれば、いらん支持やいらん反発が来てしまう。
すべての言葉が何らかの政治に触れてしまう中で、いったいどういう言い方をすればいいのか。どうやったら、あっちとこっちを架け橋し「相互理解」を実現できるのか。‥‥って書いただけで、もはや使い古された「普通の正統派の言い方」感が漂ってくる。誰でもジジェクみたいに語れるわけではないし。
こういう危機感とそれに伴ううっすらとした絶望感は、為政者のみならず、何かものを言わねばと思っている人々の中に広く潜在しているのではないかと思う。