「嫌悪感の表明」と「相互理解」の間

最近話題になっていた、セクシュアルマイノリティへの施策をめぐる千葉市長の一連のTweet(わかりやすくするため番号を振った)
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昨夜は5のtweetはてなブックマークがたくさんついていて、私も最初にそれを読んだ。現状認識はほぼ同意だが、最後の一文がセクシュアルマイノリティに向かって「嫌悪感の表明」をしても良いと言っているように受け取れたので、最初かなり批判的なブコメをつけた。
しかし、後でその前のtweetを読み、セクマイへの偏見や差別を払拭できない人々に対しどう説得的に対応するかで苦慮している風だったり、「行き過ぎたポリコレ」への不満を抱く人々の感情にも寄り添わねばと配慮している感じなど、あちこちに気を使ったあまり説明不足の表現になったみたいだと思い、少し穏健なブコメに書き換えた。6のtweetを読んだのは今朝。さすがに対応が早い(けど、両立しないことを両立させているように見えるので違和感は残る)。


3のtweetも、『セクマイの人々に対して「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」というのは、多くの異性愛者にとってはごく普通のことで、それ自体は責められるべきことではない。セクマイの権利を守る施策に反対する人は、まずそういう感覚、感情が自分の中にあると認めよう。そこを無視して、「同性同士の結婚は子どもが作れないからダメ」「少子化を促進する」「家族の形が壊れてしまう」といった非論理的な批判をしても議論にならない』という意味だろう。
要は、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」という指摘だ(それを柔らかめに、該当者の感情を慮りながら言っている)。*1


大体その通りだと思うが、一方で私は別のことも感じた。
もしセクマイの権利を守る施策に反対する人々が、自分の中の嫌悪感を自覚していて、その上で、というかだからこそ「嫌悪感の表明」をするのはマズいと思っていたらどうだろう。
(「気持ちが整理できない」はまだしも)「生理的にダメ」などと言っては直接セクマイの人々を逆撫でするだろうし、議論の俎上にも上げてもらえない。だからそこは隠して理屈で反対しよう、という”配慮”が彼らの中にあったとしたら? そういう人はいると思う。
そこに、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」と冷静なツッコミを入れ、そのなけなしの”配慮”もなかったことにして「感情に素直に」に一気に行っちゃうというのは‥‥どうなんだろうか?というのが少しある。


人の感覚や感情は、理屈では制御できない。だが一方で人は社会的な動物である以上、建前というものを作る。表に出しづらい本音を建前で包んでコミュニケーションすることで、互いに不要にぶつかり合って疲弊しないように配慮する。
どうしても「嫌だ」ということを言いたい場合は、その感情が必然であり一定の人々が精神的損害を被るばかりではなく、社会的に悪影響を及ぼす可能性があることなど、きちんと理屈をつけて正当性を主張する。その理屈でより多くの人を、「なるほど確かにそうだ」「そうしたほうが社会的に利があるな」と思わせたほうが勝ち。
もっともすぐさま、「それだとこっちの立場はどうなる?」という文句や批判が来て議論が振り出しに‥‥という可能性はあるが、一応かたちとしては理屈で勝負ということになっている。その手続きを全部すっとばして、「とにかくお前らが気に入らないだけだ」と言ってしまったら終わりだ。あのトランプだって、傍から見れば「それ、個人的に気にいらないだけじゃないか?」と思えることにも、一応理屈はつけている。社会を作り変えていく政治、政策を前提にして考えれば、そう振る舞うしかない。


そこからすると、「下手な建前(理屈)は崩れてるんだから、本音(感情)出せば?」は真逆である。
もちろん千葉市長が、人々の嫌悪感情を頭ごなしに否定しない(それだと逆効果)という作戦を取っているのはわかる。が、普通なら、「人間は感情でできているが社会は理屈で作らねばならないので、セクマイの権利を守る施策に反対する人々は、単なる嫌悪感情ではなく、問題点について説得的な論理を展開してみせてほしい。政策はあくまで理屈で議論しよう」と言うところだ。
ヘイトスピーチをやんわり封じた上で、理屈勝負に持っていって勝つ。それを辛抱強く繰返して、徐々にコンセンサスを得ていく。


問題は、そういう「普通の正統派の言い方」ではもう先に進めない、感情的に反発する人々を包摂できない、むしろ「普通の正統派の言い方」をすればするほど壁に頭を打ちつける、だけでなく、事態を良くないほうに引っ張っていくことになりかねない‥‥ということなのだろう。
かといって、思い切った言い方をすれば、「逆張り」だとか「ガス抜き」だとか誹られる。いろいろ気を遣いどうとでも取れる言い方をすれば、いらん支持やいらん反発が来てしまう。
すべての言葉が何らかの政治に触れてしまう中で、いったいどういう言い方をすればいいのか。どうやったら、あっちとこっちを架け橋し「相互理解」を実現できるのか。‥‥って書いただけで、もはや使い古された「普通の正統派の言い方」感が漂ってくる。誰でもジジェクみたいに語れるわけではないし。
こういう危機感とそれに伴ううっすらとした絶望感は、為政者のみならず、何かものを言わねばと思っている人々の中に広く潜在しているのではないかと思う。

*1:付け加えれば、こうした「嫌悪感」を一律に理屈で教化することは無理であり、個人が出会い個人として知り合う中でしか解消されていかない面はある。映画『メゾン・ド・ヒミコ』はそのあたりの、マジョリティの感情の揺れ動きや変化をよく描いている。講義で使っているが、このような物語を通して、固定的イメージが変化し偏見が和らぎ感情に影響を及ぼす可能性はあると思っている。