雨宮まみさんについてのとても個人的な覚え書き

急逝されたのをネット上で知ってから鉛の塊を呑み込んだような気分になっているこの数日、関連の記事のブックマークやtwitterに断片的に書いていたことを、少しまとまった文章にしておきたいと思う。


1976年生まれの雨宮さんより私は一回り以上も上の世代で、ものを書き始めたのは40代後半と遅い。彼女のweb連載「弟よ!」を見つけて、「すごい文章を書く人だ。こういう方向性じゃ太刀打ちできないから、同じようなテーマでも自分は別の角度から書かないと」と思ったことを覚えている。
2006年に出た『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』(安田理央雨宮まみ翔泳社)も、半分は彼女の名前で買った。私はAVを見ないけれども、女性がまとめるAVについての文章なら読んでみたいと思った。
その後に、はてなダイアリーで書かれているのを知り、ちょくちょく読むようになった。AVライターとしてあちこちで発言されていた雨宮さんの、ブログの長文が面白かった。彼女の記事を引いて書いたブログ記事は二つある。


「美人◯◯」と「女性◯◯」- Ohnoblog2
女の子がだっこされて言ったこと - Ohnoblog2


二番目の記事を書いた後、メールを頂いた。取り上げてくれて嬉しかったこと、このブログを読んでいること、いつかお会いする機会があれば‥‥ということが書かれてあって、私を知っていて下さったのに喜び、同時になんて礼儀正しい人だろうと思った。雨宮さんが『女子をこじらせて』で単著デビューする2年前のこと。


そしてある日、『女子をこじらせて』が編集者の方から送られてきた。献本リストを著者から編集者に送るのが通例なので、入れて下さったのは嬉しかったが、すぐには読めなかった。当時、ネットでも書く人が見られるようになった「女子の自意識もの」から、少し距離をおきたいという気分だった。まして雨宮まみなら、ちょっと覚悟しないと読めない。
しばらくしてから一気に読んだが、その自分語りの赤裸々さというか正直さと、文章の熱量の高さにあてられた。
「女」について考える女は、自分のことを厭と言うほど掘り下げたくなるものだとは思いつつ、これについて私などが言えることはない、むしろ一回り以上も年上の女が論評すべきものではないんじゃないか、「私も似たようなところを通り過ぎてきた」と共感して書くのも上から目線っぽいし‥‥という気がして、そのままになった。今更遅過ぎるけど、御礼くらい述べるのがマナーだったと思う。


それからの雨宮さんの活躍ぶりはここで改めて書くまでもなく、世代もリアリティも書き方も違う、どんどん輝きを増していく一人の女性を、遠くから見ている一人に私はなった。
新しいブログ「戦場のガールズ・ライフ」や、web連載「女の子よ銃を取れ」は、はてなダイアリーで時々書かれていたことの延長線上にある内容だったが、言葉に磨きがかかっていた。同時に、きちんとセルフイメージを作っていく感じがあった。
常に何かが溢れてこぼれているのを突っ切って走っていくような、テンションの高いエモーショナルな文章には、ちょっとついていけない感じも時々味わった。想定読者世代ではないということも、大きかったかもしれない。


そして、web連載「東京」に出会った。
一度でも東京に憧れたり上京して住んだことのある身には、とてつもなく突き刺さる内容だった。一編一編がどこか小説のようでもあり(村上龍の『トパーズ』を思わせる回も)、才能に嫉妬しながら、これはもう私一人でこっそり読みたいと思ったほどだ。私には逆立ちしても書けない、ドロドロとキラキラの希有な一体化。
『東京を生きる』というタイトルで書籍化されている。


東京を生きる

東京を生きる


雨宮まみより丁度10歳上に、酒井順子がいる。同じように「女」をめぐるたくさんのエッセイで著名だが、文章のタッチや受ける印象が全然違う。
それは、酒井順子が東京出身で、東京の文化を当たり前に浴びて育ってきたから、ということが大きいだろう。「鋭いなぁ」と感心しつつもクスッと笑って読める酒井順子の文章に漂っているのは、東京生まれ東京育ちの人特有の余裕(地方出身者にはわかるのです)。
雨宮まみはそのギャップを、ものすごいエネルギーで埋め、超えようとした。「東京の女」、いや「東京を生きる女」という「なりたい自分」に全力でなっていく。そのくらいの歳の頃、私がすっかり諦めたものを、この人は全然諦めてない。30代でこれを書き、自他ともに認める「東京を生きる女」になったら、40代は何を書くのだろうという興味が湧いた。


しかし多くの人が救われたという、読者の相談に答えるweb連載「穴の底でお待ちしています」は、実は1、2回しか読んでいない。
その文章のあらゆる意味での完璧さ、皆から「雨宮まみ」として期待される役割を期待以上にこなしていく律儀さに頭が下がると同時に、身が擦り減ってしまうだろうな‥‥と思った。どうやって精神のバランス取ってるの?と。


今年始まったweb連載「40歳がくる!」で、個人的に印象深かったのはこの回。
06 親が死ぬ - 40歳がくる!


お父さんとの軋轢が、私とほとんど同じだ。少し遠くに感じていた雨宮さんがふっと近くなり、「父殺し」という言葉で、「ああ、やっぱりそうなんだ」と思った。「父殺し」をしたかったという話を、私もとある共著本の中で書いたことがあったから。
しかし、苦しみながらもなんとか乗り越えてきた30代の終わりから40代の初めの頃の、もう呼び覚ましたくはないさまざまな感情を、人の文章の中でナマナマしく見るのはしんどい感じがして、この連載も飛び飛びにしか読んでいない。


一方、彼女が発信するファッションや物への愛情溢れる文章、写真は結構見ていた。わりと早い時期に何かの画像で「すごくオシャレな人だ」とわかり、最近はinstaglamも時々拝見していた。
40歳が近づくと、「こんな恰好していていいのかな」とか「若作りと思われないか」と悩む人は多い。雨宮さんも悩んだのかもしれないが、そこを振り切って、夢があってトンがった服を選んでいらして(ってネットで見ただけだけど)、それがまた似合っている。
積極的に露出をしているのだから当然かもしれないが、「これは憧れるし、目標にしたい若い人多いだろう」と思った。


ファッションでギリギリのところを果敢に攻めていく感じは、文章と似ている。
感情の襞に分け入り突き詰めていくような文章を書く中で確実に消耗するものはあって、どこかで癒しを得たりエネルギー補給しなければならない。そのやり方はそれぞれだが、この人はテンションを緩めるのではなく、刺激の強さを別の刺激で相殺してバランスを取る感じなのだろうか、たとえばこの消費社会で飽くなきナルシシズムと物欲を積極的に肯定し、その中に飛び込んでいく姿を私たちに見せてくれることそれ自体も己のエネルギーとしているのか、と思ったことはある。
私と同世代の作家、中村うさぎはそういう生き方をし、そのすべてをネタにし書くモチベーションに転換していた。でもああいうふうには雨宮さんはならないだろうとも思った。だってそれは、確実に自分の身を切り刻むからだ。
それに、露悪的、自虐的にすら見える中村うさぎの生き方は、雨宮さんの美意識には全然マッチしないような気がする。


雨宮まみさんの本を3冊作った編集者の方の文章の追記に、「着ること」について書いてもらえばよかったとある。
【ポットの日誌番外編】雨宮まみさんのこと 文・小嶋優子|ポット出版
この文章は、立場は違うが上の世代の女の目線としていろいろと共感できた。
雨宮まみみたいに書きたい」と熱望し、トライする若い女性ライター予備軍は多いのではないだろうか。でも彼女はおそらく、「サブカル系女子」以降の世代で自らの自意識を掘り下げていくタイプの女性の書き手の、最後の人だと思う。



まとまらないが最後に。
最近はたまにしか更新がなかったが、「amazonでなにが買えますか?」は、密かに楽しんでいた連載だった。雨宮さんの中の冒険心と常識とのバランスが、自然に伝わってくる。
そこで今年の3月、フラットシューズがおすすめされていた。
お手頃できちんと感のあるフラットシューズ - amazonでなにが買えますか?


私はフラットシューズが好きで、ちょうど持っていたのが買い替えの時期だったこともあり、試しにブルーを買ってみた。デザインが落ち着いた感じでいい。
軽くて履きやすかったので、次いでブラックも買った。この二足は今年の春夏、大活躍した。安いから一夏でダメになるかと思っていたが、そうでもない(毎日通勤する人間じゃないからか)。ちょっと伸びてヘタっているがもう少し履こう。
雨宮まみさんにお会いできなかったのはやはり縁がなかったのだと思うけど、webでおすすめされてたあの靴、大野は買って愛用してますよ。




●追記
先ほど追悼しない - 能町みね子のふつうにっきを読んでいたら、葬儀の場面で以下の記述があった。

病気で亡くなったならともかく、こんな、ゴムを伸ばしまくってたら突然バチンと切れたような死に方について何をお利口に悲しんでるんだ、ゴムを限界まで伸ばすという危ない行為を続けながら大丈夫だと言い張っていた本人に怒りはないのか。

近くにいた人の目に彼女は、やはりそういう感じに映っていたのかと。自分のであれ他人のであれ、デリケートな感情に向き合い続けて書くという仕事をあれだけこなし、しかもその間もあちこちに行ったり素敵な画像を次々上げちゃったりしてどんだけタフなんだと思っていた。
いや人生に、そういうめちゃくちゃなパワーが湧いてきてわくわくするようなことに挑戦できて毎日が充実していて寝るのも惜しいような時期はあるけれど、長くは続かない。まだまだいける、と思っていてふっと切れたりする。大抵はそういう予感があって「あ、ヤバい」と引き返すけど、その先にあるものに強烈に魅入られていると進んでいってしまう。
こういう言い方は語弊があるかもしれないが、一種の過労死だったのかもしれないと思った。
そして、そこまでテンションを上げて疾走することでキラキラした何かを生み出すのと、少しテンションを下げて力を蓄えながら進むのとどちらが良かったか、良いものを生み出せたかということは、誰にも判断できないのだ。