朝日新聞のコラム「百聞より一見」

東海ローカルな話です。
一昨年の5月から、朝日新聞東海版文化面のコラム「百聞より一見」(毎水曜朝刊)に、一ヶ月か一ヶ月半に一回の割合で展覧会コラムを書いています。
今日の紙面では、名古屋市美術館常設展示室3で開催中の、河村るみ「介(かい)- 生と死のあいだ」についての文章が出ています。記事タイトルは、「在と不在『喪の作業』」(デジタル版で読めるのは数日後になります)。


末期がんの母親を自宅介護した作家の経験が元になっている作品です。毎日4時から会場でパフォーマンスも行われています。ものすごく静かな、溜め息のようなパフォーマンスです。
身内を亡くしたことのある人にとっては特に、さまざまなことを考えさせる展示だと思います。今月26日まで(同時期開催中の『永青文庫 日本画の名品展』が、昨日から展示替えで後期に入っています。小林古径の『髪』や菱田春草の『黒猫』が展示される後期のほうが良さそうです)。




ちらし表裏(可読性が低くてすみません)



記事の締め切りは月曜日で、次週の水曜日に掲載されることになっています。となるとせめてその週一杯、できればあと一、二週間くらいは展示の続く展覧会を取り上げたい。ただ、私以外に演劇と音楽のレビュアーがおり、この週に掲載してほしいと思っていてもそこが取れないこともあります。
従って、ギャラリーで二週間くらいの個展などの場合、よほどタイミングが合わないと書きづらく、どうしても期間の長い美術館の展覧会に傾きがちです。
名古屋も現代アートのギャラリーが一頃より少なくなったり、常設展示のところが増えたりで、アート情報を当たっていても「これは是非見ておかなくては」と思う展覧会を見つけるのが難しい時があります。逆にそれほど期待しないで行って、意外に面白かった時も。まあ何でもそうですね。


というわけで、展覧会をされる方がここを読まれていたら、お知らせを頂けると嬉しいです。とりあえずアートに分類されるかなと思われるもので、東海三県で開催されるものでしたら、美術館・ギャラリー展示に限りません(むしろそうじゃない方が面白いかも)。
右上のリンク(ohnosakiko)からプロフィールのページに飛んで頂くと、メールアドレスがあります。ただ必ず見に行って必ず書くとはお約束できない点だけ、ご了承下さい。どうぞよろしくお願いします。



以下、これまで書いたコラムの中から3本ほど掲載しておきます。*1


■『月映』展(愛知県立美術館)

 今日、マンガから評論まで、膨大な数の同人誌が発行されている。一つ一つはささやかなものであってもそこには、「自分たちは今、コレを世に問うている」という気負いと気概がある。広大な原っぱに向かってボールを投げ、誰かが投げ返してくれるのを待っているのだ。
 一九一四年九月、三人の美術学生が、『月映』(つくはえ)という詩と木版画の雑誌を世に送り出した。画塾で出会った田中恭吉と藤森静雄、そこに竹久夢二と交流のあった恩地孝四郎が加わって意気投合し、同人誌活動を経て出版社からの雑誌刊行にこぎつける。結核の田中は中途で療養のために帰郷した和歌山から、作品を東京の二人に送り続けた。第七輯の刊行直前に田中は死去、一年余の三人の活動に終止符が打たれた。
 展示されている木版画は、掌サイズのものが多い。繊細な線で自らの生と死を見つめる田中、宇宙と個をテーマに独特の詩情を湛えた藤森、グラフィカルな構成を目指した恩地。西欧美術の影響も受けつつ、初めての試みに賭ける若者たちの情熱と興奮が、静かに伝わってくる。
 第一次世界大戦戦勝国となり好景気を迎え、モダンな都市文化が花開く一方、各地で米騒動が発生し、大正デモクラシーが起こった一九一〇年代。文学では白樺派が「自由」や「理想」や「個人主義」を謳った。その背景にあった、明治以来の国家主義への忌避感と個人の内面世界への沈潜を、『月映』も共有しているように思われる。  
 社会と自己とのずれ、孤独、自由な生への渇望‥‥。それらの感情を、三人の男子は「板を彫る」行為を通じて時代に刻みつけようとした。百年の時を超えて私たちは今、彼らの投げたボールをキャッチしている。そのボールは、世の中に流されず己の魂を深く見つめているか?と問うている。


■ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき(豊田市美術館

 見た映画や展覧会について、誰かと語り合うのは楽しいものだ。「あそこ、面白かったよね」などと体験を共有し合う。しかし時に、同じものを見たとは思えないほど感想が食い違うこともある。それは当たり前だ。見るとはあくまで個人的な体験。極端なことを言えば、私の認識している緑とあなたの認識している緑がまったく同じとは限らない。それを確かめる方法はない。『ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき』は、そんな私たちの「見ること」をめぐる隔たりについて、深い思索を誘う展覧会だ。
 一つめの展示は、生まれつき目の見えない人に美しいものは何かと尋ねる<盲目の人々>。盲目の人の肖像写真、その人の言葉、そこからソフィ・カルが想像して撮った写真という三点セットのシリーズだ。視覚をもたない人々が語る「美」が実にさまざまなことに驚かされる。
 二つめは、中途で視力を失った人に最後に見たものを尋ねる<最後に見たもの>。人は外界認識の90パーセント以上を視覚に頼っている。失明直前に見たものとは言わば、その人が世界と別れる時の光景だ。それは盲目の人の語る美と同じくらい、第三者には追跡不可能な、個人的なものだろう。
 だから盲目の人々の言葉とカルの写真との間には、おそらく乗り越えられない壁がある。この「見ること」をめぐる絶対的な隔たりは、三つ目のヴィデオ・インスタレーション<海を見る>で止揚される。海を見たことのない人々が、浜辺で海を見渡している後ろ姿、そして初めて海を見た眼差しのままカメラに向き直った顔が映し出されている。
 私の認識している世界とあなたの認識している世界は、同じではないかもしれない。私たちの出自や環境や体験が異なる以上。でも未知の世界を初めて見る驚き=「最初のとき」は共有できるのではないか。そんな希望が込められていると感じた。


■ほどくかたち - plasticity 米山より子個展(ギャラリー数寄)

 2020年の東京五輪開催に向けてなのか、最近よく聞かれる「和のおもてなし」や「日本文化の発信」。だがその中心となっている安倍首相直轄の有識者会議「『日本の美』総合プロジェクト懇談会」で語られる「日本」は、驚くほど古色蒼然としている。「クールジャパン」でも「伝統回帰」でもないリアリティは、どこにあるのだろうか。
 米や和紙という一見非常に日本的な材料を用い、手仕事を通じて素材の美を最大限に引き出しながらも、米山より子の作品は「日本」のイメージからふんわりと飛翔していくかのようなおおらかさを孕んでいる。
 絹糸に様々な間隔で接着されたご飯粒が、半透明に光りながら五月雨のように天井から何十本も降り注ぐ中、台の上に乳白色の像が5体。複雑な襞のブラウスは細かく畳まれた裾の長いプリーツスカートに続き、首や腕はなく中は空洞だ。近づいてみればすべて和紙。
 水に濡らすと紙粘土のような可塑性に富む手漉き和紙を、土台に被せて成形し乾かして土台を抜き取る。身体が土に還った後にひっそり残された「衣装の遺跡」とでも呼びたい静かな佇まい、そして全体の姿や襞の表情から想起されるのは、飛鳥、ガンダーラの仏像やパルテノン神殿の女神像。国は異なっても歴史を遡れば、身体と衣服のイメージはどこかで重なり合う。
 窓際のガラスケースの中には、器の水に浸された連なるご飯粒や、絹糸の刺繍を施された和紙のオブジェなど、無国籍感漂う小品が並ぶ。添えられたゲーテの「水の上の霊の歌」は、たくさんの水を潜り抜ける米と和紙に捧げられているかのようだ。
 思えば米も絹も紙漉きも、大陸から伝来し生活・文化の中に根を降ろしたもの。それらを日本的イメージに固定化せずクリエイトしていこうとする作家の姿勢が清々しい。

*1:純粋なレビューというよりは、コラム的な文章です。書き方としては、冒頭に一般的な話題で短い前振りを作っておいて、展示紹介・批評に移り、最後に前フリと関連する文言で締める、という形式にしています。