『ゲンロン0 観光客の哲学』感想tweetセルフまとめ

読了直後でかなり散漫な内容だがメモとして。
tweetをそのまま埋め込むと読みづらいので、文章のみコピペ(https://twitter.com/anatatachi_ohnoより)。
いろんな意味でおそろしい本だった。内容要約はしてないので、以下は未読の人には何がなんだかです。



ゲンロン0、第一部読了。哲学思想は興味あるところだけ気紛れに齧り歩いてきた自分のようなふまじめな読者にも、極めて親切設計で有り難い。< >についての注とか細かな気配りが。二層構造論が恐ろしくクリア。「こうである」と「こうありたい」が慎重に書き分けられている点もリーダブルだった。


「観光客」の可能性については正直まだよくわからない。政権の交替やテロの勃発で観光は簡単に影響を受けるし、「抵抗」として機能するのはやはり「哲学する観光客」に限られるような気も。ただ、ある限界を突破しようとする時、このくらい大胆な仮説を立てる必要があるのだろうと想像。


国境を越える観光客になるのが諸事情で今難しい自分は、「観光客」という概念を地理的なものから抽象的なものに読み替えてみたいと思った(諸ジャンルの「観光客」的観客とか)。また、観光客になれなくても、観光客に出会う側として考えられることもいろいろあるなと。「おもてなし」とはまた別に。


内容に賛同するかどうかはおいといて、これだけ射程距離の長いものを読むと脳が掻き回される。10年後、20年後(生きてたら)にもたぶん引っ張り出して読むと思う。


「希望」を語るのは難しいわ。「絶望」は簡単だけど。


ゲンロン0、第二部読了。5、6章とフロイト-ラカンがせり上がってきてワクワク。「犬」で一旦本を閉じて泣く。まさか東浩紀を読んで泣くとは思わなかった。「不能の父」に男性的(近代的)主体からの大幅転換を感じると同時に、このような形で諦観と希望を同時に出すことについて考えさせられる。


子どもを持たなかった自分だが、「家族」(疑似家族)という親密圏について、フェミニズムの家父長制議論を越えて再考すべき必要性を感じ講義で細々やってきた個人的経緯もあるので、この「序論」の先がどうなるのか気になる。とりあえず偶然出会う「不気味なもの」は明日初めて顔を合わせる学生だ。


疑似親子、特に親の役割については、以前『ねことオルガン』という童話の考察の中で書いた。ここに登場する「おじさん」は今思うとまさに「不能の父」。http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20130301/p1


男は「不能の父」でいいのだが(いいのか)、女はどうしたらいいかという問題がある。


たしかに20世紀のアートにしても、それを駆動させてきたのは父を殺そうとする息子たちの理論であり、美術史は父殺しの歴史だった。そういう意味でのアートは終わったとすると、そこで「親としても生きろ」とはどういうことになるのか。


「親としても生きろ」とは「世界は子どもたちが変えてくれる」と信じ希望をもてということ? でも亀山郁夫の見立てでは、子ども(カーチャ)は皇帝暗殺計画に失敗する。世界は変わらない。それでも次の子どもが? つまり子どもさえいれば希望は持ち続けられると? いやそんな単純な話のわけないな。


「不気味なもの」、子ども、未知なもの、偶然のものに最後の望みをかけざるを得ない、というところまで来ていると。これはヤバいわ。真実かもしれないだけに。


ゲンロン0、リベラリズムへの失望の深さを改めて感じる。この深さ(怒りに近い)を共有できないと読みにくいかも。「観光客」と「不能の父」はそれぞれグローバリズムナショナリズムに対応。それを通してポストモダニズムを徹底するしか道はないということのよう。絶望と希望が点滅している。


解説や整理の箇所は「なるほどなるほど。よくわかる〜」という感じでスイスイ読めるが、提案の部分は「そうかそうだよね〜納得」という具合にスルッとはいかないと思う。つまりそれくらい重大なことを言ってる気がする。根本的な考え方の転換を迫るようなところがある。うまく言えない。


いや、「重大」というのは違うかな。ええとそんなふうに考えてほんとに大丈夫なのか的な何か。
違和感を覚えるところもないではない。観光客が出てくるなら移民は?とか。子どもに丸投げし過ぎではないか?とか。少し時間をおいて読み直す。



ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学