「差別」と「欲望」についての断片

例によって少し前の呟きから抜粋(人のtweetに反応したものだが、単体で成り立つよう若干手を入れた)。



差別(偏見や先入観などを元に特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをする)とは単に好き嫌いの感情ではなく、構造的な権力関係を前提としてマジョリティがマイノリティを排除したい時に現れるもの。
こうした社会的位相における差別と、個人的愛憎における区別とは異なる。人を愛することと差別に反対することは、個人の中で両立する。愛の反対は憎しみではなく無関心。儀礼的無関心に基づく平等というのもありうる。


そもそも人に「差別する自由」などというものはない。なぜなら、人はつい差別をしてしまうものであって、そこにするかしないかの選択の「自由」などないから。
差別感情は不条理且つ根源的なものゆえ、人の心から完全に消し去ることは難しい。だからこそ理性による制御が求められる、とされてきた。


近代は「人権」の時代であり、差別撤廃も近代的理念の徹底化の一つ。その流れはおそらく止められない。
ただもちろん法的規制については慎重さが必要。理念では律し得ない不条理を完全に消毒しようとすると、抑圧された差別感情は最悪のかたちで出てくる。今既にそうなりつつある。



自分の望むタイプの欲望を自由に選択できない点で、人は欲望から不自由な存在だ。
選択の余地なく抱いてしまったその欲望を実行に移したら加害行為になる、あるいはそれが相手の合意が取り付けられないような種類の欲望の場合、その存在は秘匿される。でなければ周囲の人々に強い不安をもたらすから。


秘匿せねばならない欲望を抱いてしまった人は、欲望を開示し行動に移せる人を羨んだり、時には自分が不当に抑圧されていると感じるかもしれない。だが反社会的欲望の開示は周囲だけでなく、自分にも結果的に社会的不利益をもたらす。
この苦しみは、欲望が多形倒錯である人間に生まれついたことにもよっているのではないか。


自然から半ば疎外された存在であるがゆえに、人の性欲は生殖に限定されず多形倒錯となった。それが高度な文化を作る一方で犯罪も生んだ。
だから欲望の取り扱いには細心の注意を払わねばならない。私たちが自由に欲望を選べないことがその最初の認識。それは宿命として受け入れ手なづけるしかないもの。


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