下駄の季節

昭和30年代後半から40年代が私の子ども時代で、当時、普段履きに下駄を履いている人がまだ普通にいた。きものや浴衣だけでなく、洋服の普段着に下駄を履く。
家の玄関の上り框にはいつも、父の大きくて四角い朴歯の下駄があった。子どもの頃から下駄を履き慣れた世代である。それを履いて父は、幼い私をよく散歩に連れていった。私の歩みに合わせてゆっくり歩いている時の、カラン、コロンという長閑な下駄の音を朧げに覚えている。
母は下駄ではなくサンダル履きだったが、祖母はよく普段着のワンピースに下駄をつっかけていた。今ならそのままコンビニに行く感じ。


3歳頃、戸外で撮った写真がある。セーターにフラノのような襞スカートなので秋かと思うが、素足に下駄。片足だけ、人差し指と中指の間に鼻緒のつぼをひっかけている。子どもなので適当な履き方をしている。
同じく下駄を履いた妹とあちこちポクポクほっつき歩いて帰ってくると、台所にいた母の「そのまま上がっちゃダメ!」という声が飛ぶ。そして勝手口のところで、「まぁどこを歩いてきたの」などと言われながら、汚れた足(まだ舗装されてない道もあった)を固く絞った雑巾で拭いてもらって、茶の間に上がる。
夏に浴衣を着せてもらった時は、少し上等の下駄を履けるので嬉しかった。


小学校を卒業する頃は、すっかり下駄からも卒業していた。浴衣を着ることもだんだんとなくなり、下駄からますます遠ざかった。
ただ、都市圏でも70年代の終わり頃までは、ジーンズに下駄履き男子が少数ながらいたと思う。私は東京の美術予備校でそういう人を目撃した。ちょっと特殊かもしれないが、中村雅俊が下駄履きでデビューした影響力がまだ残っていたのだろう。
そして、久しぶりに帰ってきた実家では、父の下駄はいつのまにか消えてスリッパのようなサンダルに変わっていた。
地方の町の商店街などに時々いた、洋装にタビックスを履いて下駄をつっかけたおばあさんをとんと見かけなくなってから、どのくらい経つだろう。


数年前からきものを着始めて、下駄に再会した。
まず草履に慣れ、次いで下駄で歩き回るのに慣れて、下駄が楽しくなった。草履より気取りがなくて、さっぱりしているところがいい。何といっても涼しい。足の指を思い切り伸び伸びと広げることができる。足が寛いで、気持ちも寛いでくる。
夏は、浴衣以外では麻などのカジュアルなきものしか着ないので、下駄の出番が多い。



今やサンダルより多くなってしまった。新品も貰い物も。


私はもっぱら、歩きやすい右近(二枚歯ではなく低めのポックリのような形)を愛用しているが、時々駒下駄(二枚歯)も履く。駒下駄は粋だし、カラコロといい音がするのが魅力だ。
レストランや美術館など音を立ててはいけないところには履いて行けないが、舟形で裏全面にゴムの貼ってあるのは音がほとんどしないので、足袋を装着の上で美術館にも履いて行く。ぱっと見は草履に見える(画像左上)。
塗りの下駄は美しいが、前の角の塗りが剥げやすいのが難点。爪皮を被せ、もっぱら雨下駄として使っている。


下駄ほど、のんびりした無防備な履物はない。二枚歯は砂地ではめり込むし、コンクリートの上は若干反発が強い。石畳や細かい砂利道が一番歩きやすい。
そんなものを履いている時に、もし災害に遭ったらどうするの?と思わないこともない。帰宅困難者になったら、右近はまだしも駒下駄で長距離を歩くのは、ちょっとしんどいかもしれない。
非常時用に、折り畳めて軽い携帯用のペタンコ靴とかあると便利だ。


きもの研究家の山下悦子が『きもの歳時記』の中で、下駄について書いたくだり。

 草履は音をたてないで歩くもの、下駄は音をたてて歩くものである。
  [中略]
 のどかなそぞろ歩きの下駄の音は、足首や躯の緊張を解きほぐすだけでなく、 心の屈託も追いやるようだ。かたかたと小さな足音でそれとわかる子供、心せくままの前のめりの足音。律儀さは足音ばかりでなく、歯のへり具合にもあらわれる。同じ「からん、ころん」でも、『牡丹灯籠』の下駄の音は怪談に凄みを添える。


思い出したのは『ゲゲゲの鬼太郎』だ。♪カラーンコローンカランカランコロン‥‥
そして山下悦子は、下駄は「平和の象徴」であり「集団には結びつかない特性がある」と書いている。ここで下駄の対極に置かれているのは、軍靴である。
たしかに軍靴に集団性はつきものだし、マンガなどでもその足音は「ザッザッザッ‥‥」という、行進する集団の音として表記される。のんびりした「からん、ころん」は、「ザッザッザッ‥‥」にかき消される定めである。
72年前、学徒動員で行った戦争が終わり、軍靴を脱いで、戦前と同じく下駄を愛用する日常に、二十歳の父は戻ってきた。
一緒に散歩した時の長閑な下駄の音に、時々、上機嫌な父の口笛の音が混じっていたのを思い出す。



新装版 きもの歳時記

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