自己実現と失敗と書くこと

内輪の読書会の後の飲み会で、2人の知人に意見をもらったところから、ツラツラと考えたことを書き起こす(Twitterより)。


U氏とK氏は私の思想的基盤(らしきものがあるとして)形成にとって重要な人物だが、「美術家廃業から始まった大野の今のあり方はまだ不徹底だ」とU氏は言い、K氏は「逆に、世俗に塗れ悪魔に魂を売り渡して人並みに苦しんでないのが弱みだ」と言う。生き方について真逆のことを言われている。
共通するのはおそらく「楽なところで自己実現しようとするな」だろうと思う。「楽」かどうかは相対的なものなので措いといて、「書く」ことは自分にとって自己実現なのだろうか。という問題について、改めて考える。


自己実現を超えた価値とはどういうものなのだろうか。ある人は「社会を変えようと志すこと」だと言う。私の書くものにはそれが希薄だ、つまり自己実現に留まっていると。
たとえば、芸術には自己実現を超える価値があり、それは社会に影響を及ぼすという考え方がある。美術家の頃、私は素朴にそう思っていた。だがある時から、社会は芸術の影響によって変わるのではなく、社会の変化に伴って芸術の様態も変わる、ということに過ぎないのではないかと思い始めた。
己の自己実現とともにある「いつか何かが良い方向に変わるんじゃないか」という期待は、裏切られるのではない。ずっと期待のまま維持され、そのうち諦観と腐敗に辿り着く。残った自己実現願望には多少の後ろめたさが伴うだろう。これは私が美術作家活動を通じて体感したことだった。
その芸術で救われる人もいるわけだからそれでいいではないかという視点もある。ここで芸術で救われるとはどういうことかという問題が出てくる。この世の中が少し生き易くなるということだろうか。ならばそれは芸術でなくても宗教でも恋愛でも家族でもいいかもしれない。実際そういう場面は多い。


一方で、民主主義が、民主主義の理念と矛盾する欲望(たとえばメシア願望)を育てているように見える。ある日、救世主や天才が現れてすべてを解決してくれたら、という。そこで人々は挫折した自己実現をその一人の救世主や天才に託す。藤井四段礼賛と安倍批判は表裏一体のものではないだろうか。
私の中にもメシア願望がないことはない。「平等」への疑い。この社会での凡人の自己実現は、何かの諦観や腐敗と手を切れないのではないかという認識。であれば、そうした自己実現の失敗として、「うまく失敗すること」として、「書く」ことを位置づけ直すことはできないだろうか。