『黒水仙』鑑賞メモ

連日むちゃくちゃお暑うございますね。Twitterで呟き過ぎてブログがお留守になるという典型的なパターンを辿っております大野です。
かなり前の呟きですが、メモとしてそのまま置いておきます。『黒水仙』(1947、イギリス映画)、なかなか面白かったです。



『黒水仙』をDVDで。小学5、6年の頃TVで観たきりで、なんだか断崖絶壁にある修道院で2人のシスターと男が三角関係になって‥‥という曖昧な記憶。例の鐘の下の揉み合いシーンだけは鮮烈だったので覚えているが、ほとんど初見と言っていい。キャサリンバイロンが演じるシスター・ルースは、デボラ・カーが演じるシスター・クローダーの無意識だと思った。


インドの僻地で崇高な使命をまっとうしようとするクローダーが抑圧する、普通の女として生きたかったという欲望を、病んだ女ルースが体現している。クローダーは病んでないルース、ルースは病んだクローダーであり、両者は信仰と欲望に引き裂かれた一人の女の表と裏だ。


しかしクローダーはその欲望=もう一人の自分を自分から切断し、葬り去る。意図したわけではないが結果的にそうなる。「黒水仙」は現地の将軍の息子が振りまく香水の名であり、シスター達が捨てた世俗の象徴だが、「本来は白いものが黒い」というクローダーの自己分裂を表す言葉にも思える。



優等生顔の鉄面皮デボラ・カーと、ダークサイドに堕ちたキャサリンバイロン(美人なだけにこういう顔が怖い)


後半、キャサリンバイロンの存在感、特に鋭利な目が凄い。デボラ・カーを喰っているほど。カメラは劇中何度も、さまざまなトラブルや緊急事態で修道院の廊下を駆け抜けるシスターの姿を捉えている。その白いベールと修道衣が激しく翻るさまが、信心と世俗的欲望の間での煩悶を思わせる。


インド・ヒマラヤ奥地でクローダーらイギリス人の修道女達は、「聖」において自分たちを凌駕する山の上の聖人(修行僧)と、「俗」において自分たちの生活をかき乱す人々(将軍の息子や少女)の間で、どちらでもない中途半端さを露呈し任務遂行不可能となり退却した。


そう捉えると、多少形式的だが、啓蒙者としての西欧が、アジアに敗北した図として見ることもできる。清濁呑み込むかのようなアジア的自然に、西欧的理念が太刀打ちできなかった物語。間接的には、植民地主義への自己批判


あ、そうだ。インド人の男の子を忘れていた。英語が喋れてシスターの代わりに先生役まで引き受ける、気の効く元気な少年。それと好対照なのがイギリス人で現地の仲介役のディーン。悪い人ではないが諦観を漂わせ露悪的なところがある。2人は、若く勉強熱心なインドと大人だが退廃的なイギリスの対比。



黒水仙 [Blu-ray]

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韓国映画でリメイクされてるようですが、そっちは未見です。
● 追記:リメイクではなく別の内容らしい。失礼しました。