Loftの広告、炎上から取り下げまでで思ったこと

※この数日のツイートをそのまま並べた(横道にそれたもの、言及先のあるものは除く)。

 

●広告に批判

Loftのバレンタイン特設ページが炎上気味と聞いて見てみたが、特別厭な感じは受けなかった。ただ、全体のセンスが何となく古臭い。女芸人が女子あるあるネタで散々やったような感じ。それにもう平成も終わりなのに、まだカレシ用のチョコ買うのかい自分用でなくてという。‥‥いや別にいいんですけど。

ポップな感じの絵にちょびっとダークな要素混ぜるのって凡庸だよね。どうせなら彼から彼へ、彼女から彼女へというパターンも作りゃいいのに。まあLGBTの商売利用として批判されるかもしれないけど、ヘテロ恋愛関係で散々商売してきてるんだし、そのくらい誰も思いつかんのかということが不思議。

あれは「サブカル」という指摘を見て、ああだから古臭いんだと思った。サブカル的な内輪受けっぽい「毒」入ってますよというスタンス。もう10年以上前に死に絶えたものが復活してきたようで、それが絵づらも含めて「まだこのセンスか」と思わせる。文化全体が停滞しているのを象徴しているようだ。

ロフトの広告、「バレンタインデーってこういう事が表面化するんだよね。もうやめる」とか「全然ハッピーな気持ちになれないからロフトでチョコ買わない」という女性が増えて売り上げが落ちて、結果としてバレンタインデー商戦への批判として機能した‥‥と後に語り継がれるようになったら面白いのに。

(と思ったが、そこまでの強い「毒」もない中途半端さがダメな感じだ。カカオ65%って感じで。


●広告取り下げ

Loft、広告取り下げか。個人的にはそこまで?と感じたけど顧客層から評判悪ければそうなるのか。ネットがなかったら個別に文句言ってるだけでここまで盛り上がらなかっただろう。厭なのは自分だけかもと。ネットでは同様の人の存在が一気にわかるから、勢いがつくということはある。良くも悪くも。

しかし実際ロフトに直接抗議があったのかな。ネットの反応を見て「まずい」と思って引っ込めたんじゃないか。最近そういうパターンが多い。個人レベルでは「これ嫌いだ」「女をバカにしてる」と呟いたりその呟きに同意したりしているだけなのだが、「抗議して取り下げさせた」ことになるという現象。

もしこれに対抗するのだったら、批判が出てきた時点で「いや違う。これは広告として優れた表現だ。なぜなら~」という論陣を張らないと。その表現が失われるのを真に憂慮するのなら、その表現を擁護しなければ。でもそこまでした人はいない。皆どこかで「どっちでもいいじゃん」と思っているからだ。

「女性が意中の男性にチョコを贈る日としてスイーツ業界が無理矢理盛り上げて一大商売にした、カカオ農園の搾取と非モテ男性無視の上に成立する、グローバル資本主義的消費を煽るバレンタインデーを粉砕せよ!」と言う女子はおらんの?「広告が厭」vs「またフェミガー」で闘ってるより面白そうだけど。


●広告とは

Loftって元々若者が主な顧客なんだからもっと若者(特に女性)の感覚を調査した方がいいと思う。どこかで止まってる。

‥‥というのは企業寄りの発想だけど、これだと消費者が企業と一体化するだけだから根本的にはダメなんよね。この社会における企業広告という位相そのものへの批判的視点がなければ。内容など関係ない。それらは基本的に消費者を騙し企業が儲けるためのものでしかない。くらいの「引き」の視線が必要。

企業の広告表現に対して「ポリコレ的にダメ」とか「女性差別」とか抗議していけばいくほど、企業の資本主義的戦略のうちに自分達が取り込まれるということを意識しないといけない。快適でカッコいい広告に囲まれた消費生活は奴隷の生活かもしれないということを。

従って選択としては、「問題」ある広告に抗議し続け大企業の掌上で奴隷生活を改善しようとするか、広告に「問題」があろうがなかろうが関係なく大企業の存在自体を「問題」視するかであって、「こういう表現も守るべき。抗議した自称フェミは偏差値60の学級委員長」と明後日の揶揄をすることではない。

短期的には奴隷生活の改善をしつつ、長期的には大企業ばかり儲かる社会は潰れろ、もありかも。しかしあまり長期だと死ぬ人が増えるのでなるべく早く潰れろ。


●PC vs 嫌PC

最近、何事につけ相手側を「道徳」や「規範」のマジョリティ側に置き自分を「毒」を解するマイノリティ側に置くというポジション取りに孕まれる欲望とは何か?について興味がある。普通それは中二病と言われるが、PCへの反発からそういうポジションを取りたがる人が増えてきているように思う。

しかし公共の場に出る表現においては、「道徳」や「規範」であろうが「毒」や「アート」であろうが、今や資本主義経済を滞りなく循環させるために出したり引っ込めたりされるものに過ぎない。その時不問に付されているのは、そういう紙芝居に一喜一憂するしかない身分に留め置かれていることの屈辱だ。

所謂PC側は平等な社会を、反発する側は自由な社会を目指している。ただ前者にはいつまで言い続けたら?という無限地獄が、後者にはPC側の発言の自由を封じることはできないというジレンマが。そんな中、平等と自由の釣り合いは「商売になるかどうか」で決定されていくという身も蓋もない事実がある。

問題は誰もがその「商売」に巻き込まれているということだ。バレンタイン商戦とは無縁の人も、別のシーンで「商売」に巻き込まれている。巻き込まれる中で知らないうちに、望んでもいなかった事を望み、欲しくなかった物を欲しがるように欲望を作り替えられている。「欲望とは他者の欲望」と言う通り。

もしこの中でお為ごかしの所詮は商売に使われる「平等」などより留保無しの「自由」を求めると言うのであれば、PC側に反発して「反規範」や「反保守」を気取っているのではなく、この国家・経済体制とその元で花開いた資本主義カルチャー(芸術含む)を根底から問い直すという構えでなければならない。

(そんなようなことは、10年以上前から折りに触れて言ったり書いたりしているけど、一方で「そうは言ってもさぁ」という話になる。そりゃなるわな。でもこれからも時々呟いていく。


●表現側の問題

広告でも他の表現でも一旦「こうだ」と思って出したものをちょっと批判があったからって簡単に取り下げていてはダメだよね。批判はどうしたって起こる(全ての人が満足する表現などない)んだから、出す側はそれなりの覚悟と確信を持って出してほしいね。もちろん批判する側はガンガンすればよろしい。

一度出したものを取り下げるというのはもう余程のことなんだ、という認識を自ら崩していたら、表現なんて空気みたいに軽いものになるよ。そういう中で「この程度なら前も大丈夫だったから」というノリで質の低いものが出てくる。そして批判されて、検証もせずすぐにひっこめる。政治家の失言と同じだ。

また批判した側を、「納得してる人もいるのに大袈裟な文句つけて無理矢理取り下げさせた。ひどい」と非難するのもおかしい。そもそも「無理矢理取り下げさせる」ような権力など誰も持っていないし、もしその「文句」が本当に「大袈裟」だったのなら取り下げた側に問題がある。すべては表現側の問題。

 

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