『全共闘以後』の余白に小さい字で書き込む、私の「活動」

1.『改訂版 全共闘以後』(外山恒一イースト・プレス、2018)

1950年代から60年代末にかけて盛り上がった学生運動は、72年のあさま山荘事件以降衰退し、若者は政治への関心を失った‥‥というこれまでの見方を否定し、主に80年代以降のメインストリームではない若者たちによる社会運動を、多くの関係者への丹念な聞き取りと自身の体験を元に”通史”として描き出した、本文だけで600ページ近い労作。
序章では全共闘の「前史」と本書に通底する筆者の問題意識が示され、第一章から第五章までは、80年代から90年代の左派から右派までの有名、無名の人々のさまざまな動きや現象を、内在的な批判を交えつつ活写している。第六章と終章はゼロ年代以降の話となっており、80年代生まれの活動家たちへの若干の距離感が見られる。

縮めて言えば、50年代半ばに革命への意志を失ったそれまでの左翼を否定して登場した新左翼運動と、その象徴であった全共闘ノンセクトラジカルの核心的な部分=”68年”の思想が、以降の若者たちの政治・思想・文化闘争の場にどのように継承されてきたか、同時に、かつてのその最良の部分が80年代以降どのように変質したかを、明らかにしようとする書である。
こうした中で最も批判の対象となっているのは、80年代初頭に登場する「新人類世代」の政治の忌避とサブカルへの耽溺、90年代以降の元新左翼系文化人の旧左翼・リベラル返りといった現象だ。
語り口は平易で読みやすく、絡み合った個々の活動と、統合したり離反したりする複雑な交流圏(当然登場人物も多い)の出来事を手際良く捌きながら、時にユーモアも交えて解説されている。「名前を聞いたことのあるあの人は、なるほどそうだったのか」と、”界隈”にあまり詳しくない私はパズルのピースが埋まっていく感覚を味わった。

ちなみに、外山氏がさまざまなところでポリコレ及びフェミニズムを攻撃するのは、70年華青闘告発以降の左翼運動が、結果的に今日の過剰なポリコレと神経症的なフェミニズムを創出させたという政治認識に基づくものだろう。
それと同時に、90年代末に外山氏の起こした「彼女を痴話喧嘩の末に殴ってしまった」という個人的な件が、必要以上に膨らまされて結果的に2年もの獄中生活を送ることになる、その相手側の論拠がまさしくポリコレとフェミニズムを利用したものであり、しかも外山氏にとっての”不倶戴天の敵”がこれを機に介入してきて、それまでに氏が福岡で築いてきた交流圏が水疱に帰すという痛恨の出来事(本書に詳述)があったことも、大きく影響しているのではないかと思う。
政治信条の相違や対立が先なのか、人間関係の難しさが先なのかという鶏と卵のようなシーンは他でも描かれており、運動を介した交流圏というものについてまわりがちな厄介な問題があると感じた。

私は1959年生まれで外山氏より一回り近く上の、本書では批判的に言及されている「新人類世代」である。新左翼系の運動には高校時代にちょっと掠っただけで、以降は直接的な関与をしていない。穏健な左派市民運動にさえ、署名などが回ってくればすることはあるものの一定の距離をとってきた。
社会運動、政治活動らしいことをしていないのに、この文章のタイトルになぜ ”私の「活動」”という言葉が入っているのかと言えば、美術に傾倒していた1977年(18歳)から2002年(43歳)までの25年間、私にとって政治や思想とは「美術・芸術における政治や思想」であり、活動とは「美術・芸術における政治や思想にどう向き合うか?をめぐる活動」だった(作品で社会・政治的テーマを扱ってきたという意味ではない)からにほかならない。

もう一つは、美術、芸術に沈潜しつつも、かつて旧左翼に覚えた反発と全共闘世代への相反する感情、イラク戦争以降盛り上がっていった文化人による反戦運動への「コレじゃない」感、しかし右にはいけないだろうなという迷いなど、長らく自分の中に政治的位相をめぐるモヤモヤがわだかまってきた‥‥という事情がある。これについてはこの数年、ささやかな「活動」らしきもの*1に関わりながら、まだ考え中である。

そんな自分の70年代からの半世紀が、本書を読み進んでいく中で、別の角度からくっきりと照らされるように感じられたのは個人的な収穫だった。ただ、その光はあるところには強烈に痛いほど当たっているが、別のあるところにはほとんど当たっていないとも感じた。

 


2. 私の「活動」

さて、あまりまとまりがつかないと思うが、『改訂版 全共闘以後』(以降、『全共闘以後』と記す)の"余白"に書き込むつもりで、本書の記述を時々引用しつつ、「シラケ」で「サブカル」で「新人類」な世代の一人としての「活動」を振り返ってみる。※()内のページ数はその名の初出のページを指す。個人名の「氏」は省略。

 

■70年代(ほぼ10代)
「政治運動」という言葉で思い出される最初の記憶は、72年、家族で見ていたあさま山荘事件のテレビ中継である。
戦前生まれの父は戦後の一時期共産党に入党していたこともあるゴリゴリの旧左翼で、新左翼とは思想的には相容れなかったはずだ(全共闘世代の私の叔父と大喧嘩している)が、”エリートコース”を捨てて”反米反帝”闘争に邁進する彼らの活動には妙なシンパシーを抱く部分もあったようで、私の家ではなんと、機動隊よりも立てこもった”過激派”学生の方を応援していたのである。
そんな左翼家庭で育った私が、70年代後半、高校時代に新左翼系の運動に掠る話はこちらで書いている。

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ちなみに、ここに登場する叔父は革マル派で、一時期身を隠していたが、その後は運動から離れ出世コースからも当然脱落した。私とは今でも仲がいい。
高二の時に私が参加したデモの肝心の名称や日付はすっかり忘れた(全国統一行動だったことは確か)が、イシューとしては狭山差別裁判の石川一夫被告の無実を訴えるものと、在日朝鮮人指紋押捺強制をめぐる件があったと記憶する。
私をオルグした上級生のT君の所属する「高校生叛乱共闘」(追記:これは私の記憶違いで「高校生叛(反)戦共闘」だったようだ)という組織、略して「高叛共闘」は、中核派の下部組織だったらしい。そのステッカーが高校のクラブハウスにもベタベタ貼ってあった。当該団体は現在ネットで検索しても出てこず、『全共闘以後』にも登場しないので、愛知県の一部の高校だけだったのだろう。
T君は私を三里塚闘争に参加させたかったようだが、狭山裁判といい在日の問題といい被差別当事者の運動に自分が乗っかっていくことにリアリティを見出せなかったのと、親から勘当されることが目に見えていたので、三里塚には行かなかった。
その後、自分の中に中途半端に育った新左翼的心情(信条には届いていなかった)を持て余したまま、東京での大学浪人生活に入った。付き合い始めた埼玉出身の男子に手紙(メールはまだない)で「狭山事件って知ってますか」と書いたら、何を勘違いしたのか「秩父事件は~」と返ってきて、ややがっかりしたことを覚えている。

 

ここで、「序章 “68年”という前史」において示されている、本書のもっとも重要な観点と思われる箇所を、少し長くなるが引用する。

 欧米のポストモダン論は、”68年”を肯定的に総括し、それを継承する”68年以後”の運動展開の模索の努力と密接に結びついているが、日本のそれは違う。内ゲバの全盛期がまだ続いている70年代末に大学に入学した世代のうちの先鋭的な部分、つまり内ゲバさえなければラジカルな政治運動に新たに身を投じていた可能性が極めて高い層が、しかし内ゲバのために簡単には政治的な運動へと身を投じることができず、その外側から時代状況をあれこれと分析するためのツールとして、輸入思想としてのポストモダン論を受け入れた。その際、欧米のポストモダン思想に含まれる政治的文脈は当然のごとく隠蔽され、むしろ学生運動などの”政治的なもの”を忌避するための高級な言い訳のレトリックとしてそれは活用された。欧米では”68年以前”の古い左翼運動を否定し、”68年”に始まる新しい左翼運動を正当化し理論化したものであるポストモダン思想が、日本では”68年”のそれをも含めた新旧の左翼運動それ自体を”古くさいもの”として切り捨てることを正当化する言説として、”換骨奪胎”されたのである。(p.11)

78年、私はまだポストモダンのポの字も知らない大学一年生だった。東京藝大では何か活動してる人もいるんだろうなと思ったが、「内ゲバの全盛期がまだ続いている70年代末に大学に入学した」にも関わらず、そこにはセクトの張り紙も立て看もない実に平和でノンポリな風景が広がっており、自治会の立て看は「絵画棟のエレベーターを5時で止めるな」といった学内設備に関する訴えとか、新歓祭や芸術祭などに関するものだけだった。
当時の藝大において、「内ゲバのために簡単には政治的な運動へと身を投じることができ」なかったのではなく、そもそも何もなかったのである。さすがに、高校時代に新左翼系の活動に少し関わっていたという人は、自治会にいた。しかしキャンパスに”68年”の何らかの痕跡を見つけることはできなかった。


■80年代(ほぼ20代)
当時、あちこちの大学で統一教会への勧誘を行なっていたという原理研の学生にも、偶々かもしれないが、藝大構内では遭遇しなかった。
ただ生協には民青の学生(音楽学部)が一人いて、彼女に誘われてうっかり一回だけ消費税反対のデモに行ったことがある。その時、もうこの手のデモには決して参加すまいと思った。消費税なんて誰でも反対に決まっている。こういう微温的な活動がしたいんじゃない。新聞会で藝大新聞の編集をしていた私は、持って行き場のないモヤモヤを雑文にぶつけていた。

上のテキストでは、当時荒れ狂っていた中学・高校の校内暴力についてかなり内向的な筆致で書いているが、校内暴力が若者たちによる”反管理教育運動”に繋がっていく経緯は、「第二章 85年の断絶」で詳述されている。
ここに登場する愛知県東海高校藤井誠二(p.96)は、河合塾美術研究所の教え子で今は彫刻家である藤井健仁の、お兄さんである。また、私の父は公立高校退職後に6年ほど東海高校に勤務しているので藤井誠二とニアミスだった可能性もあり、妙な符合を覚えた。
妙な符合と言えば、”反管理教育”に関しての記述で言及されている『ぼくらの七日間戦争』の著者、宗田理(p.168)のご子息も河合塾で教えたことがあった。

 

第一章の「3. 80年前後のノンセクト学生運動」で、”環境管理型”の新設大学、筑波大学についての記述がある。

それでも80年代半ばまでは、繰り返すように学生運動がそれほど特異な存在ではないような大学状況は全国的に続いているから、筑波大にもその管理体制の打破を目指す学生の動きは現れる。(中略)
 実際、この翌79年には学生たちによって”自主学園祭”が実力開催され、翌80年の自主学園祭は筑波大に初めて機動隊が導入され阻止されている。
(p.54~55)

学生を管理するための3S(スタディ、スポーツ、セックス)という言葉を、当時の私も聞いていた。藝大新聞会にも送られてきた筑波大自主学園祭実行委の告発レポート(のようなものだったと記憶)で機動隊導入事件を知った私は、さっそく藝大新聞で取り上げ、筑波の実行委宛に”連帯の挨拶”文を送った(その号が手元にないので詳細は紹介できない。とにかく資料はどんなものでもきちんと保管しておくべきである)。

 

ある時、自治会室のロッカーの中に、多摩美術大学の学友会が79年に発行した『試行』という小冊子を見つけた。それは多摩美闘争の記録を、10年近く経ってから学友会でまとめたものだった。ここで私は、全共闘美大版である「美共闘」というものが存在していたことをやっと知る。
こちらのスレッドで小冊子の一部を紹介している。

”在野”の多摩美全共闘が、”官学”の東京藝大にデモをかけたこともあったらしいと人伝に聞いた。日大闘争があったせいで日大芸術学部も激しかったらしい。藝大ではどうだったのかという資料は見つからなかったが、当時多摩美の学生で美共闘のイデオローグだった彦坂尚嘉の著書『反覆』(1974)を後で読み、徐々に当時の詳細を知るようになる。
美共闘の闘争には、現実の改革的な側面と芸術上の側面があり、「制度としての美術」が射程に収められていた。80年代当時唯一「美共闘」に言及していた千葉成夫の『現代美術逸脱史』(1986)にも述べられている通り、「制度としての美術」とは美術館制度や学校制度、美術市場やジャーナリズムだけでなく、美術表現そのものが「見ることの制度」を形作っているという認識から来る言葉である。

表現や「見ること」の中に既に「制度」がある、現実のどんな政治や社会制度より深いところで私たちを捕捉しているそれを、作品において解体しなければならない(美共闘世代とは違うやり方で)、それが真に自由になることだ‥‥という観点は、以降の私の制作の重要な指標となった。
在学中の80年代冒頭、美術は世界的に大きな変化の最中で、その先端的なきざしは藝大の中にもあった。急速に、自分のいる美術という場所の政治性を意識しながら、私は近代的な彫刻制作を手放し現代美術の制作に向かっていった。現代美術とは社会の”異物”なのだと素朴に信じていた(このあたりのことは自著『アーティスト症候群』(2008)と『アート・ヒステリー』(2012)で書いている)。

 

初めての「輸入思想としてのポストモダン論」は、たぶん当時の多くの若者と同じく浅田彰の『構造と力』(1983)だが、私はそれを頭の中で強引に美術の世界の言葉に翻訳して読んでいた。『構造と力』も『逃走論』も、私にとっては「外側から時代状況をあれこれと分析するためのツール」以前に、「見ることの制度」においてどうやって遊戯的に革命をなすかという、自分の一大テーマに深く関わるテキストだった。
最初に出会った「ポストモダン論」についてそういうナマイキな読みをしたのは、83年に東京・神田のギャラリー・パレルゴンが出した小冊子『現代美術の最前線』に収められた少し上の作家たちの言葉群と、パレルゴンで企画をしていた藤井雅美のテキストの影響が大きい。

ただ、美術というフィールドで闘うのだと決めたはいいが、西洋哲学も思想もつまみ食い程度の知識しかなかった私には、「”68年”に始まる新しい左翼運動を正当化し理論化したものであるポストモダン思想」に「含まれる政治的文脈」は、まだはっきりとは見えていなかった。
ニューアカ周辺の”スキゾフレニック”な言葉に魅入られているという側面は、私にも多分にあったと思う。それでも、「ポストモダン」という語の喚起するイメージに、20代前半の自分が無闇に勇気づけられていたのは事実である。自分の直観に従って、やりたいことは何でもやってしまえばいいのだと思った(その勢いで、1983年の最初の個展でギャラリーの壁を壊した。修復したけど)。

 

学部を出て名古屋に戻り、制作活動をしながら河合塾美術研究所の講師をするという生活に入った。周囲に美術の制度性について関心のありそうな人は見当たらず、地元の芸大に行った高校時代の同級生とも疎遠だった。全体に、アーティストは政治に強い関心なんか持たなくていい、むしろない方がいいといった雰囲気すらあった。
わりとショックだったのは、80年代後半だが、一人の受験生が誰から聞いたか「大野先生、昔はアカだったんだって?」と言ったことである。「左翼」ならわかる。しかし戦時中ではなくバブル真っ只中に「アカ」とは。彼の家では左翼がかった人間を「アカ」と呼んでいたのかもしれないが、左翼であることがどこか小っ恥ずかしいようなムードが世の中の表面に漂っていた、ということかもしれない。

そんな中でも美術を通して徐々に人間関係ができ始め、ある場所の企画・運営に関わった。当時のことを振り返ったテキストは、こちら。

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自分から見た80年代の名古屋の”アートシーン”については、こちらのサイトにテキストを寄せている。

g-surge.com

 

14歳で美術を志す前、私は音楽志望(クラシックピアノ)だったが、80年前後にテクノ、パンク、ニューウェイブが一気に来たことでそこにどっぷり浸かった。
その流れで83年頃、名古屋で「毒まんこ」というインディーズバンドを組み、美術活動と並行して音楽活動を2年ほどした。バンドブームの走りの頃である。

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「第三章 ドブネズミたちの反乱」でページ数の割かれている「たま」(p.159)とも、彼らのメジャーデビュー前に知り合っている。名古屋のライブハウスで「らんちう」や「さよなら人類」にバカウケし、彼らの東京でのステージに出演させてもらった。その時の模様は『「たま」という船に乗っていた さよなら人類編』(原作:石川浩司、漫画:原田高夕己)で描かれている。
ごく一部の界隈で”伝説”(笑)となった「毒まんこ」は今思えば、フェミニズム第三波のやや早めの活動でもあった。当時リブやフェミニズム関係の本を少しは読んでいたが、私はもっと遠くに行きたかった。
バンド解散後、しばらく音と映像を使ったパフォーマンスをしており、原爆オナニーズや割礼ペニスケースなどのパンクバンドを輩出したライブハウス「ハックフィン」や「オープンハウス」などに出演した。

追記:名古屋のパフォーマンスアートを振り返っている小冊子で言及されていた。

 

80年代の文化状況と自分との関係については、こちらに書いている。

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■90年代(ほぼ30代)
河合塾名古屋校はゴールデンセブン(団塊ジュニア世代が入ってきて受験生が増え続け濡れ手に粟の7年間)と言われた80年代末から90年代にかけて、主に元名大全共闘で現代国語の講師だった牧野剛(p.73)、小林敏明をはじめとした全共闘世代の講師の人脈で、蓮實重彦鈴木邦夫など著名人を講演、講師に呼んでいた。
86年に結婚した相手は同い年の河合塾の大学受験科講師で、もとは完全にノンポリだったのが、予備校生時代に牧野剛の薫陶を受けて左傾した人だった。茅島洋一(p.74)や菅孝之(p.60)なども夫を通じて知った。牧野剛の『予備校に会う』も読み、本人には何度もお会いしているが、その政治思想は新左翼というよりリベラルに近く思えた。
夫は、長良川河口堰反対運動から愛知万博反対運動までさまざまな運動に関わっていたが、なぜかピースボート辻元清美(p.72)のことを名古屋人だと誤解しており、「名古屋出身なのになんで関西弁なんだ」という理由であまり好意的ではなかった。
牧野剛に関して言えば、全共闘世代の良い面も悪い面も持ち合わせた人物という印象が強く、晩年の彼には夫も私もやや批判的な目を向けるようになっていたが、夫は今でも毎年の墓参りだけは欠かさない。夫が全共闘世代から思想的にどこまで深い影響を受けていたのかは不明である。
私は一度、「牧野、牧野って言うけど、何を残したの。結局は焼け野原じゃないか?」と夫に嫌味を言ったことがあった。夫には「おまえは現代美術で一体何を変えたんだ」と言い返された。作家を廃業する前の話である。

 

そんなこともあって、個別の政治・社会問題に関心がないわけではなかったが、現実の運動というものに対しては、どちらかというと冷ややかな態度を取っていた。「第三章 ドブネズミたちの反乱」で詳細に論じられている、主に東京を舞台にした”89年革命”の様子も知らないままだった。
91年の「文学者の反戦声明」(p.283)に連なった名前を見て、結局そこに落ち着くのかとなんとなく失望した覚えがある。反核反戦、反原発。それらが目指すところは安心と安全であり、表立って反対する人はいない。
もちろん自分も反核反戦、反原発を支持はする。市民としては支持するしかない。そういう当たり前のことを、最高の知性を持った影響力のある人々が雁首揃えて言っている状況が、うんざりだった。そういう人にはもっと別の、凡人が思いつかないような視点からものを述べてほしかった。

反核反戦、反原発を支持する一市民の自分は、凡人である。しかし一方で現代美術などというものに関わっている以上、安心、安全を訴える列に安易に加わってはいけないという気持ちもある。現代美術を高みに置いているからではない。それは社会の”異物”であり、一見どんな無害な外観を取っていようと、一皮めくればこの足元を掘り崩し、破壊的かつ享楽的な地平を開くもののはずだった。
この社会をこれ以上酷くしたくない前者と、一度何もかも底を打ってしまえという後者の分裂は、美術作家をやめた今でも私の中にある。

 

ギャラリーを中心に発表活動を始めた80年代半ばから90年代後半までは、まだまだ遠くに行けるんだという感覚があった。90年代の名古屋では若いアーティストたちを中心としたインディペンデントな動きが活発で、名古屋芸術大学の非常勤講師だった私もそうした中で仲間と共に美術批評同人誌を出したり、他ジャンルの人と共同制作をしたりといった活動が増えていった。このあたりのことは書き出すとキリがないので端折る。
名古屋は狭いので他ジャンルの人との繋がりが容易であり、93年頃、何かと長いお付き合いになる「絶対演劇」の海上宏美(当時、劇団「オスト・オルガン」演出家)と、あるシンポジウムを契機に知り合う(2019年には彼を通じて、「なごやトリエンナーレ」を企画した元名古屋アナキズム研究会の人々と出会うことになる)。

美術の中でも外でも、この世界は閉じていてどこへも行けないのだ‥‥という閉塞的な感触が自分の中で強まってくるのは、だいたい90年代末からだ。
ゼロ年代に入って少しした段階で、この美術というジャンルに革命が起こることはないのだと、はっきり悟った。自分のやれることはここではもうないと見切りをつけ、2003年春に私は美術家を廃業した(このあたりも『アーティスト症候群』で書いている)。

以下は、美術家廃業についての短いテキスト。

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※自分の作品画像はネット上に出していない(所属ギャラリーのサイトからも消去してもらっている)のだが、検索したら少し出てきた。
・84年のグループ展の作品

g-surge.com

・他の作家の制作に参加した時に提出したプロフィール、及び90年代末頃の作品

www.kawarasaki.org


■00年代以降(40代~)
私と前後して演出家を廃業していた海上宏美、当時名古屋芸大の英語教員だった清田友則と三人で「廃業調査会」と称してシンポジウムなどを行い、その流れで内輪の読書会に参加するようになる。清田のナビゲーションで現代思想に大きな影響を及ぼしているフロイト-ラカンを学びジジェクを読み、徐々に哲学、政治思想関連の本を読んでいく中で、ようやくこれまで自分の中で曖昧だった点と点が結ばれるようになっていった。フェミニズムジェンダー論を精神分析を通して考え直す作業も始まった。
東京を中心に、若い人が参加している新しいタイプの社会運動が盛り上がってきているのは、ネットを通じて知っていた。ロフトプラスワン、だめ連、サウンドデモフリーター労組‥‥。
それなりに関心はあったが世代も離れており、”現場の熱いノリ”みたいなものには距離を感じるだろうと思った。

こちらで、ある本を読んで覚えた違和感を書いている。今思うと随分辛辣な書き方だし、揚げ足を取りすぎだったんじゃないかという気もしないでもない。ただ、こうした言葉遣いへの異和がある限り、私には「活動」は向いてないのではないかとも思う。

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美術作家廃業以降は、文筆に活動を移した。06年頃から数年、はてなダイアリー(現在はてなブログ)の非モテ論壇に参加し、ブログに多くのテキストを書いた。「性」をめぐる問題意識は、『モテと純愛は両立するか』(2006)、『「女」が邪魔をする』(2009)で若干不十分ながら開示している。20年関わった美術に対する自分なりの総括は、『アーティスト症候群』と『アート・ヒステリー』でしている。

2019年以降に関わることになった、ある「活動」についてのテキストは以下。

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note.com


長くなったが最後に、この10年くらいの間に固まってきた自分の基本的な考え方を、簡単に書いておきたい。


1. 現在半ば自明となっている議会制民主主義、グローバル資本主義象徴天皇制、この三つの関係性を視野に入れていない社会批判、制度批判に、深い関心は持てない。
2. 人間存在の根底に暴力があり、「性」はそれに大きく規定されている。このことを隠蔽したり粉飾するような文化や制度は、本質的に欺瞞である。しかし、人間は他者と生きていくためにそういう欺瞞性を必要とするものでもあるという認識は必要。
3. 私は芸術批判はしたが、何かを「つくる」ことは肯定する。それは世界に対して受動態でしかない自分を、能動態に作り替える行為であり、その現れは「もの」でも「こと」でも良い。