夢から逃れて

朝、目覚めた時しばしば、100メートルを全力疾走した直後のような状態になっている。心臓が高鳴りぐったりして汗を掻いていたりする。疲れを取るために寝ているのに、起きた直後がクタクタってどういうこと? いよいよ本格的に更年期障害かという気もするが、若い頃からそうだ。
直接の原因は夢。私にとって、夢を見ることは大変に疲れることだ。


今日こそは夢を見ずにスッキリ目覚めたいと思っても、明け方のレム睡眠は私を夢の世界に引きずり込む。恐ろしい夢はそれほど頻繁には見ないが、わけのわからない(しかしそれなりにストーリー性のある)長い夢を見て起きた時の後味は、いつもあまり良くない。「残念、夢だったのか」ということはまずなく、「夢で良かった。さあ起きよう」という気分でもなく。
夢の呪縛が解けるまで、私はしばらく布団の中でじっとしている。夢の内容は目覚めて数秒でさぁーっと波が砂の文字をかき消すように忘却の彼方に消えていっても、夢の中で味わった感情だけは残っていることがある。とても奇妙な気分だ。私は夢の中で何に遭遇しているのだろう。


脳に直接電極を繋いで、スクリーンに「これが今、この人が見ている夢だ」とイメージを映し出すことはできない。だから夢は、起きてから記憶として思い出し語るというかたちでのみ存在している。
夢とはおそらく多種多様なイメージの集積に過ぎず、私たちは覚醒した直後にそれらをストーリーとして組み立てるのではないかと言われている。フロイトはこれを夢の二次加工と呼んだ。


では一次加工は? それは睡眠中に行われる。フロイトによれば夢とは、無意識が何らかの形で現れたものだ。
無意識の中には当人にとって、「意識したくないこと」「忘れていたいこと」がいろいろ存在している。覚醒時はそれらは無意識の中に抑圧されているが、睡眠状態では無意識の蓋がゆるみ、意識に侵入しやすくなる。
だが、それが剥き出しで意識に上がってくることは滅多にない。刺激が強過ぎて睡眠が妨げられるからだ。無意識と意識の境目で検閲作業が行われ、加工を施されたより刺激の少ない変形したかたちで現れるという。
夢が辻褄の合わない内容だったりするのは、この夢の加工作業のためであるとフロイトは考えた。
では悪夢とは、無意識の中に抑圧されていた何かおぞましいものが、検閲をかいくぐって現れた状態だろうか。まるでクトゥルー神話で、他次元世界の異形のものが現実世界の破れ目から侵入してくるように。


フロイトの『夢判断』には、死んだ息子が父親の夢の中に現れて「お父さん、僕が燃えているのがわからないの?」と言い、父親が目を覚ますと、燭台が倒れて息子の棺にかけた布が燃えていたという有名な話がある。父親は睡眠中に煙の匂いを嗅ぎ、燃える音を聞いていたのだが、睡眠を続行したいという欲求のためにそれを夢の中に取り入れてしまっていた。
ラカンは『精神分析の四基本概念』の中で別の解釈を施す。父親が現実に引き戻されたのは、夢の中で息子が発したメッセージに、父親にとっての「その子の死の原因となった出会い損なわれた現実」が込められていたからだと。


これについて、ジジェクがまとめている箇所を引用しよう。

このように、不幸な父親を目覚めさせたのは外の現実からの闖入物ではなく、彼が夢の中で出会ったものの堪え難く外傷的な性質だった。「夢をみる」というのが、<現実界>との遭遇を回避するために幻想に耽ることだとしたら、父親は文字通り夢をみつづけるために目を覚ましたのだ。シナリオは次のようになっている。煙が彼の眠りを妨げた時、父親は睡眠を続けるために、すぐさまその妨害要素(煙、火)を組み入れた夢を作り上げた。しかし、彼が夢の中で遭遇したのは、現実よりもずっと強い、(息子の死に対する自分の責任感という)外傷だった。そこで彼は<現実界>から逃れるために、現実へと覚醒したのである。
(『ラカンはこう読め!』p.103)


父親は夢の中で、抑圧していた「意識したくないこと」「忘れていたいこと」=<現実界>に遭遇した。<現実界>とはもちろんこの現実を指すのではない。私たちの認識する現実世界はラカン用語では<想像界>であり、<現実界>の方は一般に、私たちが決して直接向き合うことのできない無根拠で空漠とした物の世界とされている。
映画の例だったと思うが、ジジェクが<現実界>を説明するためにどこかで書いていた話があった。車の中でウィンドウ越しに見る外界はまったく正常なのに、ウィンドウを開けてその隙間から覗き見ると、そこは見たこともないような魑魅魍魎の跋扈する恐ろしく荒涼とした世界になっている。じかに見るにはとても堪え難い光景、それが<現実界>である。つまり私たちは普段は、幻想というウィンドウ越しにしか現実を見ることができないという話だ。


ジジェクの記述の中でもっとも私を怖がらせるのは、以下の箇所である。

もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれが生の<現実界>にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、”現実そのものが<現実界>との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない”(引用者注:””内は強調点がつく箇所)。夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な<現実界>と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる<現実界>)に耐えられない人のために現実があるのだ。
(同上、p.101)


寝ている間は現実を忘れていられるから楽だというのは、ここでは嘘になる。
無意識の蓋がゆるむ夢の中でこそ、真に遭遇したくないもの、忘れていたい何かに出会っているのである。
そこから幻想で守られた現実へと逃れるために、私は目を覚ます。起きた時ヘトヘトになっているはずである。



唐突に、「ナルニア国物語」シリーズの『朝びらき丸 東の海へ』の中の挿話を思い出した。「くらやみ島」のエピソードである。
昔、海の彼方に追いやられた父の7人の友人達を探して冒険の航海に出たカスピアン王と子ども達は、海上で巨大な闇の固まりに船ごと飲み込まれ、真っ暗闇で助けを求める見知らぬ老人を海中から引き上げる。「おそろしさのあまり苦しみぬいたよう」にかっと目を見開いたまま、その人は一刻も早くここから逃げ出すように皆に告げる。

 「何はともあれ、ここから逃げることですぞ。」その人は、あえぎながらいいました。「ここは、夢がほんとうになる島なのです。」
 「それでは、わたしが長いあいだもとめていた島だ。」と船員のひとりがいいました。「ここへ上陸したら、いとしいナンシイと結婚してることになるんだな。」
 「それじゃ、なつかしいトムが生きかえってくるのにあえるんだな。」という者もありました。
 「ばかな!」と見知らない人はふんがいのあまりじだんだをふみながら、「わしがこんなところにくるはめになったのも、そんなことを考えたからだ。いっそのこと、おぼれ死ぬか、生まれてこなかった方が、ましなくらいだ。わしのいうことをきいていたか? 夢だ、わかるか、夢が生きてくる。ほんとうになる。それも、目をあけていて頭にえがく夢ではない。うなされる夢だ。」
 およそ半分ほど、しずまりかえりました。それから、にわかによろいの音をやかましくさせて、全員が、できるだけ早く中央ハッチをおしあいながらかけおり、いままでかいをこいだことがないように、かいにとりつきました。そしてドリニアンはかじをぐるりとまわしましたし、水夫長はいままで命じたことのないほど急いでこぐように、命じました。なにしろ、その半分かかって、一同が思い出した夢というのは、もう一度眠りにつきたくないような夢でしたし、そんな夢がほんとうになるような島に上陸すると、どうなるかをさとったから、みんながいっせいに動き出したのです。
(『朝びらき丸 東の海へ』p.223〜224)


怖いのはこの後の場面である。漕げども漕げどもなかなかその暗闇から脱することができず、そのうち一人一人が異なる幻聴に苛まれ、ここから抜け出すことはできないのではないかという絶望感が広がる。
夢の中で、無意識下に抑圧していたものとしての<現実界>が姿を現し始め、それに到底耐えられそうにないのに、目覚めて現実に回帰することが不可能な状態だ。考えただけでもゾッとする。
ちなみに、一連の場面でまったく動じず、逆に皆の臆病ぶりに腹を立てていたのは、勇敢なねずみの騎士リーピチープだけである。ねずみは悪い夢を見ないのだろう。



ラカンはこう読め!

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朝びらき丸東の海へ (ナルニア国ものがたり (3))

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